〈ほんのわずかのおろか者達〉とは[2020年09月18日(Fri)]
◆9月8日の写真の花の名、「オオニシキソウ」(大錦草)だと教えていただいた。
手元にある『身近な雑草のふしぎ』(森昭彦著、ソフトバンク クリエイティブ、2009年)を見ると、近縁種でコニシキソウ(小錦草)というのもあるが、それは名前の通り、身を低くして地べたを這って広がるようだ。
「オオニシキソウ」はそれなりの丈で、ヤブを成すほどに育つタイプだとのこと。葉っぱに紫の斑紋があるのは共通で、トウダイグサ科に属する由。
★【9/8記事 堀部泰子「日の音」】
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/1701
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人生 ブッシュ孝子
私が
まだ若かった頃には
自分の好きな人生が歩めるものと思っていた
意志と努力とその上にほんのちょっぴり才能さえあれば
あれから
長い時が流れて今の私は考えている
そんな人生が歩めるのは
ほんのわずかの幸福な人達と
ほんのわずかのおろか者達だと
みんなが歩みたくない人生を歩いている
それでも一生けん命歩いている
『ブッシュ孝子全詩集
暗やみの中で一人枕をぬらす夜は』
(新泉社、2020年)
◆2連目、好きな人生が歩めるのは「ほんのわずかの幸福な人達と/ほんのわずかのおろか者達だ」の部分に、立ち止まって自分の頭で考えるしかない、苦い薬が仕込んである。
それはどういうことか、書いておこうと思ったのだが、この夜中に相棒が散歩をせがむ。
このところ腹具合がよろしくない。少しでいいから外へ行こうと訴えているのだ。
それを済ませてから追記することにしよう。
【以下、日付変わっての追記】
◆「ほんのわずかのおろか者達」というくだりに引っ掛かりがある。
試みにこれを含む2行の「人達/者達」の反対の人々を言葉にしてみる。
←→A「多くの不幸な人達」およびB「多くの賢い者達」となるだろうか。
Aは「自分の好きな人生は歩めない」ために「不幸」だ、という因果関係を表していて正しい(=理屈が通っている)。
しかしBは、「好きな人生は歩めない」ために「賢い」、とつなげることには無理がある。
Bのもとの表現を因果関係を表すように書き改めると〈「愚か」だから「好きな人生を歩める」〉となるが、これは理にかなった表現とは言えまい。Bおよびその元々の詩句は因果関係を表しているのではないことを示している。では何を表しているか?
大多数の人々は「愚か者」ではない。なのに「好きな人生を歩むことができない」。
言い換えれば、人生とはそういうものなのだ、ということがわかる程度には私たちに「賢さ」が与えられている、という意味なのだろう。(持って回った言い方になったけれど。)
人生の意味もそのありようも、予め知ることはできない。生きてみて初めて分かることだ。そうして実はほとんど誰もがそのように生きている。それが分かるのは、自分の眼の間隔よりも顔の幅よりもずいぶん広く、ものが見えるようになったからだ。
いわば他の人々の歩みが視野に入ってくる。
内なる明かりが我が足もとを照らすとともに、他者の姿をも照らし始めたからだ。
そのように歩き始めれば、皆目見えなかった道が確かに存在すると分かってくる。
*作者ブッシュ孝子(1945-1974)は病に倒れる前年、1973年の9月から集中的に詩作。没後、詩集『白い木馬』が刊行されたが、2020年4月、ノートに残された詩編を加えた新装版全詩集として出版された。