石原吉郎「白い駅で」[2020年07月28日(Tue)]
アカシア。今ごろ咲くんだった、と改めて思うが、花の記憶が薄い。
みちのくでの高校時代、朝、跨線橋の階段を上ると傍らに生えているアカシアの高さに並ぶことになる。それを横に見ながら橋を渡ってグランドに入る。
帰りも同じ所から下校して駅へと向かう日々だった。
朝な夕なアカシアのところを通っていたわけだ。
花が咲くのは関東より早かったろうか。
だが、白い花は見たような、見なかったような。
記憶の中に季節をよみがえらせようとしても難しい。
上の写真を撮ったとき、甘い香は、長梅雨のせいか、漂ってこなかった(嗅覚異変?熱はないけれど)。
南北に細長い列島で住処を変えた人間の季節感は宛てにはならないと思い知る。
彼処に居たという記憶も、ここに居るという手応えもどちらもあいまいなまま、いぶかしさを持て余している。
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白い駅で 石原吉郎
白い
清潔な駅におり立つと
生涯は そこで
終っているようだ
そこからあるき出す
一服の煙草と
よく透る挨拶とー
めくるめく記憶は
不意にとおいにせよ
そこで終るのが
おれであっていいはずはない
風があると
君はいったな
風があるだけでなく
おれが ある
さようならといわずに
ひとつの領域をこえる
まぶしい背なかだけの
おれだ
小海英二 編『精選 日本現代詩全集』(ぎょうせい、1982年)より
◆向こう側の世界の旅へと足を踏み出すような不思議な光景だ。
朝だとするなら「まぶしい背なかだけの/おれ」は、朝の日を背中全体に浴びて西へと歩き始めるのだろう。終着点のような場所からの出発。
夕方だとするならその逆。つまり東に向かっていま足を踏みだそうとするのだろう。
暗夜の旅であるなら、時間の刻みはもはや関係がない。
ある領域から跳躍して別の領域へと、再生であると同時に新生であるような。
「ターミナル」が終点であると同時に始点でもあるのと同じく、この詩全体が、あることの終わりを同時にあることの始まりと引き受けて歩む者の訣別と挨拶のことばなのだ。