吉野弘「湖」[2020年05月16日(Sat)]
俣野橋の向こうに飛行機が飛んでいたが視界を横切る2〜30秒の間にカメラに捉えることはかなわなかった。
見えることと視る(観る)こととの間の大いなる懸隔を、改めて思い知らされる。
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湖 吉野弘
湖をのぞきこむものは すべて
湖から 逆さに観察され
逆さに批評される。
しかも
高い山 高い樹は
低い山 低い樹より 深く
水底に沈められて。
さて
他を批評するだけで
自分を批評しない湖は
とらえている空の高さを
自分の深さだと信じている
そんな湖を
いまいましく思っている風は
ときおり 湖面に一打ち浴びせ
湖の批評眼とやらを
あっさり かき乱す。
小池昌代編『吉野弘詩集』(岩波文庫、2019年)より
◆地上にあるものをすべて逆さに映す湖は、そこに映るものを批評しているのだ、という。
映るものは逆さに見えることで、そのものの別の姿を我々に見せてくれるのだと言えば、確かにそれは批評というものの一面をとらえている。
世に股覗きという、脚を大股に開き頭を逆さにして天地逆に景色を覗いてみるということがある。天橋立がそうした名所の代表格か。
我々が頭に血を上らせてーー逆か。「頭に血を下がらせて」ーー見なくても、湖が山や樹の高低差を逆転させて見せてくれるというわけである。
絵画であれ音楽であれ、発表当時さんざんな悪評を浴びせられた作品がその後、傑作の評判をかちえていく例はいくらでもあるが、作品自体の力が世評を変えていったという以上に、少数でも具眼の批評家が作品の価値を開示してくれたおかげということも少なくない。
では、そうした評者に恵まれない作品は結局埋もれてしまうのか、といえば決してそんなことはない。作者自身が己の作物を批評の対象として突き放してみつめる批評眼をもち、創造の火を絶やさぬかぎりは、やはりいつの日か作品は世に顕れるものであろう。



