ガスのような悲しみ[2020年04月24日(Fri)]
ツリガネズイセン
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◆行き倒れ、孤独死など新型コロナウイルスによる痛ましい犠牲が続いている。
当初37.5℃が4日続いたらという目安が喧伝され、家で様子を見て、という保健所からの指示が、実際には救えたかも知れない命を死へと追いやった。
数週間前にすでに、発熱4日どころか、2日でも続いたら受診すべきであることを保健所のスタッフも認めざるをえない状態になっていた。
その後、若い人でも急に容態が悪化する人が出てきた。
今や懸念される変化が生じたら、ためらうことなく受診・検査を、という局面に入っている。
そのことを繰り返しアナウンスしなければならない。
だが、市中感染の広がりが医療の現場を疲弊に追い込んでいる。
その窮状に負担をかけては済まないと思うゆえにじっと堪え忍んでいる人たちもあまたいるのではないか。
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倦怠の本質 ゴンサロ・ロハス
寺尾隆吉=訳
理性のパンも狂気のパンも
固体の思考も液体の思考も
退屈に曇った
頭ほど人間については理解はできない。
それは、星雲のように内側に保管された
悲しみ、喉を詰まらせるガスのように、
死の白い細菌に巣食われた悲しみ全体から
湧き出る蒸気。
*グレゴリー・サンブラーノ編(寺尾隆吉=訳)
『ゴンサロ・ロハス詩集(アンソロジー)』(現代企画室、2015年)p.218
◆「理性」やその反対、常軌をはずれた「狂気」を熱源としても、理解できない「人間」という捉えがたきもの。実験室で固体や液体を扱うようさまざまに思考を働かせてもその本然に迫ることは至難に見える。
何しろ、人間の内側にあるものと言えば、それを吸えばたちまち息がつまるほかない「悲しみ」というガス=気体なのであって、それは「死の白い細菌に巣食われ」た状態から湧き出てくるのだという。
であれば、むしろ「退屈に曇った/頭」のほうが、その悲しみの蒸気を吸い込んだということも意識しないでいられる点で(いわば「酔生夢死」を体現するという点で、あるいは怠惰に身を委ねるという点で)実際の生のありように近く、実験材料として人間をためつすがめつ分析することで人生を空費するよりもましだ、ということになる。
――これは諦めだろうか? それとも皮肉や自嘲だろうか? さもなくば「退屈」とは、「悲しみ」の別名だとでも言いたいのだろうか?