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尹東柱「隕石の墜ちたところ」[2020年02月17日(Mon)]

コゲラに遭遇した。
境川べりの桜の樹にとりついて、幹を突っつく音が聞こえた。

DSCN2764-A.jpg

姿を拝んだのは初めて。

DSCN2768コゲラ-B.jpg

*******


尹東柱(ユン・ドンジュ)の「隕石の墜ちたところ」という文章がある。
1939年に書いたものと推定されているが、だとすれば22歳、若者らしい悩みと闇中での模索――それは生きることに真摯であろうとする者が避けては通れない関門である――が語られている。
その先に求めずにいられない希望についても記している。
今自分の居るところが闇であれば、希望はあるかなきかのかすかな光だけでわれわれの目をとらえる。

ほとんど散文詩といってよい。
岩波文庫の金時鐘訳で味わっておきたい。


隕石の墜ちたところ   尹東柱

夜だ。
空は蒼さきわまって濃い灰色におおわれて暗いが、星だけはきらっきらっと光っている。ぼおっと暗いだけでなくぞくぞくと寒い。この重々しい気流のなかで自らをあざけっていたひとりの若者がいる。それを私と呼んでおこう。
私はこの暗さのなかでみごもり、この闇で成長し、いまもってこの闇のなかで生存しているようだ。行くべき先がどこかも知らずに、もがいてばかりいる。そういえば私は、世紀の焦点のように青白くやつれている。急(せ)いて考えれば私を根底で支えてくれるものもなく、かといって私の頭をおさえつけてくる何物もないようだが、内実はそうでもない。私はまったくもって自由ではないのだ。私はただ有って無いようなカゲロウのように、虚空を浮遊するかすかな一点にすぎない。
これがカゲロウさながらに軽やかなことであるならまこと幸せだろうが、まるっきりそうではないのだ!
この「点」の対称位置に、もひとつ別の明るさの焦点がうずくまっているとすればどうだろう。むんずと摑めば捉えられそうな気もするのだ。
だがそれをかいつかむには、私自身が鈍いというよりも、わが心がなんの準備もできていないのではないか。してみると幸福という変わった客を呼び入れるにも、もてなすだけの口実がまた別に要(い)るということでもある。
この夜が私にとって、幼いころのように恐怖の帳(とばり)だったというのはもはや過ぎ去った伝説にすぎない。したがってこの夜が享楽のるつぼだという話も、私の思いからすればまだこなされてない石ころだ。ひとえに夜は、私の挑戦の好敵手であればよいのである。
これが生々しい観念の世界でだけとどまっているとすれば、惜しいことだ。暗闇のなかでだけちらっちらっと明かりをゆらしながら鈴なりに並んでいる藁家(わらや)が、美しい詩句になりえたというのもすでに過ぎ去った世代の話であり、今日においてはもはや言いようのない悲劇の背景なのだ。
今、にわとりが止まり木を打ちながらたけだけしい声で夜を追い払い、闇をしりぞけて東の方から夜明けという新しい客を呼び寄せるとしよう。しかしかるはずみに喜んではならない。見よ、たとえ夜明けが訪れてきたとしてもこの村はいぜん暗澹たるものであり、私もまた同じように暗澹たる者だ。したがって君も私もこの分岐路であれこれと迷い、たえずためらいがちになるほかない存在ではなかろうか。
樹がある。
彼は私の古くからの隣人であり友人だ。だからといって彼と私とが性格や環境や生活が共通しているということではない。いうならば極端と極端の間にも愛情が通いうるという、奇蹟的な交わりの標本にすぎない。
私は初めその彼をたいそう不幸な存在としてあなどってみていた。彼の前に立つと哀しくなり、あわれさに心ふさがれもした。だがひるがえって考えれば、樹ほど幸福な生きものはほかにないようにも思える。固さではとうてい比べようがないほどの岩場にも、好ましいところとはいえないにせよ滋養分はあるのだそうだから、ならばいずこへ行こうと生の根を張れないことはなく、どこで暮らそうと不平がましいことはいえないはずだ。よく茂ればそよそよ松風がわたり、つれづれにはさえずる鳥もやってきて、ひだるければひとすじの雨の恵みにも出会う。夜にはまた無数の星たちと親しく語らうこともできる――何よりも樹は行動の方向というやっかいな課題に悩まずにすむ。人為的であれ偶然であれ、芽を出した場所を守り、尽きることのない養分を吸収して、すがすがしい陽の光をあびてたやすく生活を営み、ひたすら空だけを仰いで伸びていられるのはなによりの幸せというものではないか。
今夜も課題をかかえたまま切ない思いに駆られているわが心に、樹の心が徐々に沁み入ってきている。行動することの誇りを誇れずにいるのはいたく身に沁みることではあるが、私の若い先輩が雄弁に語っていたように先輩をも信じられないとなれば、自分のゆくべき方向は利発な樹にでも訊くしかないのではなかろうか。
いずこへ行けばいいのか。東がどこで、西は、南は、北はどこなのか。おっとっと! ちらっと星が流れる。隕石が墜ちたところがどうやら私の行くべきところのようだ。そうだとすれば隕石よ! 墜ちるべきところへ、必ず墜ちてくれなくてはならない。


『尹東柱詩集 空と風と星と詩』(金時鐘・編訳 岩波文庫,2012年)より

◆「有って無いような〜虚空を浮遊するかすかな一点にすぎない」と、自嘲するしかないような微小な己。ただ、その自分は生まれ落ちてから今に至るまでいまだ分明ならざる闇の中にいるようではあっても、漂っているこの座標は「世紀の焦点」にほかならないのだ、と意識してもいる。
だが、それは絶対的に不動の原点ではない。
そこに腰を下ろせば森羅万象が我が掌のうえに収められ、何をどう扱おうとも自由である、というような至上・至高の玉座というようなものではない。

◆尹東柱の詩文において不思議なのは、世界の理解も、世界への働きかけも、問いかけてその答えを受けとめる、というやりとりを必須としているらしい、ということだ。
それを端的に述べているのは次の箇所だ。

この「点」の対称位置に、もひとつ別の明るさの焦点がうずくまっているとすればどうだろう。

「私」という点とは対称をなす位置に、もうひとつの明るさの焦点がある、と仮定する。
二つの点の真ん中には対称点(対称の中心)がある、と考えているわけである。

それを信仰の対象である「神」と呼んでも差し支えはないだろうが、大事なのは、うずくまっている相手も「私」も対称点から同じだけの距離(「遠さ」あるいは「近さ」)にいる、ということだ。その点で彼と我とに上下貴賤の区別は全くないということだ。
そうして、「私」が成長すれば彼もまた成長し、風貌に陰影が加われば彼もまた相応の陰影をたたえた存在に変容を遂げてゆく、と信じられていることだ。

◆そのように世界を理解しようとし、世界に働きかけること、価値の押しつけで満足せず、かといって相対主義にも陥らずに生きようとする尹東柱にとって、迷いやためらいは常のことだったろう。しかし、現状で良い、とか仕方がない、と諦めたり後退を自らに許したりすることは彼にとっておよそ考えも付かない生き方であっただろう。

「今夜も課題をかかえたまま切ない思いに駆られているわが心」と記す尹東柱。
課題は常に解決に導かねばならないものとして数限りなくあることが見えており、それを座視できないゆえに彼は樹に問い、夜空を仰ぐ。決してうつむき黙してはいないのである。




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