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「治る」とは何なのかー岩崎航[2020年02月07日(Fri)]

DSCN2729.JPG
なかなかの寒気に見舞われた朝。
雲の動きがずいぶん速い。

*******

岩崎航の詩集『点滴ポール 生き抜くという旗印』からもう少し。

自分に残された
時のキャンバスに
どんな画を描くか
もう、色は
決めている


◆「自分に残された/時」ということばは、ゆるがせにすることなどできない冷厳なものに向き合ったところから発せられているのだが、たとえて言うなら、薄い大福の皮の中にある餡(あん)の、持ち重りする手応えを感じさせる。
餡を包んでいる皮のつまんだだけでは破れたりしない強さと軟らかさのバランスを保つようにこね上げられたようで、口に運び歯を当てて初めて包むという任から解き放たれる、といったような。
餡の甘さを引き立てる塩に当たるのは、「もう、色は決めている」と言い切るところにこめた、自負の念だ。それでいて、実際どんな色や図柄なのかは詩を読む者の心奥の濃淡に委ねられている。


***

他人がではない
自分で起こした
人生の胎動は
どんどん
拡がってゆく


◆自分で起こした生きることの胎動、ということばにも強烈な自負が込められている。
その広がりと手応えを体全体で受けとめる躍動の中に自分がいる。

***

肺活量の
検査結果は虫の息だが
一寸の虫にも
五分の魂と
笑いあう


◆正岡子規の「糸瓜咲て痰のつまりし仏かな」と同様の「胆力」(大岡信「折々のうた」)を感じる。
わずか「五分の魂」の中に全宇宙がある。その中に我も人も端座して哄笑しているのだ。

***

本当に
「治る」とは
何なのか
一生を懸けて
掴み取る


◆やはり子規の、次の歌を連想した。

いたつきの癒ゆる日知らにさ庭べに秋草の花の種を蒔かしむ

病の癒える日がいつとも知れぬ身であるのに、秋咲く花の種を家人に蒔いてもらった、という歌だ。
過去の人間については、その結末を承知していることに凭りかかって、その生涯を分かった気になっていることが多い。
だが、病を抱えた人間にとっては一刻一刻、その日その日のどこをとらえても、常に生きている現在の己である。
子規もそうであったろうし、詩人・岩崎航にとっても。

であるならば、やがて咲きほころびる花に思いを馳せるのも、植えた種のことなど忘れるのも、どちらも、今を生きている己のときどきの在りよう以外のものではあり得ない。

そのことに思いを致すならば、病者にとって「治る」とはそもそも何なのか、考え直さねばならなくなる。
花が咲くこと、なのか、芽を出し葉を拡げて行くことなのか、あるいは土中の種が自分であると、想像してみることなのか。



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