
槐多〈鳴浜九十九里〉とカミーユ・クローデル〈少女と鳩〉[2019年12月03日(Tue)]
◆村山槐多の風景画〈鳴浜九十九里〉を見てなぜか、カミーユ・クローデルの〈少女と鳩〉を連想した。

カミーユ・クローデル「少女と鳩」1898年
ともに浜辺の光景だということと、茶褐色の地面の印象が共鳴したように思える。

村山槐多「鳴浜九十九里」1918年(再掲)
◆あと、木々の塊のような黒い影が横に伸びるカミーユに対し、槐多の絵では黒い岩礁が同じように中景に置かれていることも共通するが、画面の中における働きは異なる。
黒い影が画面を引き締めているカミーユに対して、槐多の岩礁の黒はそれに寄せる白い波とともに水平方向に幾重にも繰り返すリズムを生んでいる。
◆最も違うのは、カミーユの絵の中心にあるのは横たわる少女とその周りに群れている鳩であるのに対して、槐多にあっては2グループの人物群が描かれていることだ。
前者は鳩の羽ばたきの「動」によって少女の「静」=眠りもしくは死、を強調するように描いてあり(それはロダンとの間に得べかりしわが子のイメージを付与されているかも知れないと以前書いた)。
◆一方、槐多にあっては、右側に座っている2人か3人か判然としない人物たちは、海を眺めるではなく何ごとか親密に語らっているようであり、左の人物群はこれと対照的に、立ち姿の人物が座っている人物に話しかけているところのように見える。
仔細に見ると、立っている人物の背中の白い部分は、後ろ手に背負われた子どもであるように見えてくる。
2グループとも極めてざっくりとした描き方ながら、それぞれの会話が聞こえて来そうな情景になっている。画面の人間たちのすぐそばに画家は居るということである。画家の視点は低い。
一方、カミーユにあっては画家の背丈よりも高い所から少女を見下ろして居る。
暗示性の強い幻想の場面ということになる。
瞥見した印象が似かようと思った二つの絵だが、それぞれの世界の観方が違うことがわかって来て面白い。
★【参照:2017年11月28日の記事】
カミーユ・クローデルとロダン
⇒https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/695
引用図像:
「カミーユ・クローデル」展図録(1987年)
村松和明『もっと知りたい 村山槐多 生涯と作品』(東京美術、2019年)