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杉山平一〈詩は 世界すべてに〉[2019年10月27日(Sun)]


詩は   杉山平一

短い夏には詩がある
長い夏にはない

さらばには詩がある
こんにちはにはない

敗北には詩がある
勝利にはない

貧乏には詩がある
金持ちにはない

夜には詩がある
昼にはない

少数には詩がある
多勢にはない

ないものには
詩はさがせないか

無いことにこそ詩はあり
在ることにはないのだ

いや いや
世界すべてに詩はあるのだ


杉山平一詩集『希望』(編集工房ノア、2011年)より

◆最初の6つの連では「無い」ことに〈詩がある〉ことを列挙。
「さらば」は、親しい誰かがいなくなることであり、「敗北」は勝利を手に収めることが出来ず、誇りや満足を失うことである。

しかし、「無いこと」を嘆き、「無いもの」への想像力を働かせるところに詩はある、と言われれば、恵まれぬ者の足もと、乾いた砂地にも泉が湧いてくると信じられるだろう。
ひからびた唇に歌が蘇る思いがすることだろう。

「無いことにこそ詩はあり/在ることにはないのだ」とまで言い切って、世界の「持たざる」99パーセントの人々にこれ以上ないエールが送られる。

◆ところが最終連ではそれを否定してしまう――「いや いや/世界全てに詩はあるのだ」と。
「持てる1パーセントの人々」にも愛想よくしてへつらうのか、と非難する向きもあるかも知れないが、そう受け取られるのは詩人の本意ではあるまい。

詩はことばであり、ことばによって人は変わることができるのだから、力と希望を回復した99パーセントの人々のことばが、対立や分断でなく寛容と愛他によって「持てる1パーセントの人々」をも包摂し変容させていくはず、と述べているのである。


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