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JFK展:1961カザルス〜62キューバ〜63ダラス[2015年04月26日(Sun)]

ネパールの大地震


M7.8の大地震がネパールを襲った(現地時間25日午前11時56分=日本時間午後3時11分)。
首都カトマンズも甚大な被害という。

地球のどこにいても気が休まらない時代だとはいえ、なにものかの怒りを突きつけられているようで落ち着かない。

一刻も速く救援の手を、と思う。


1963.11.22

JFKーその生涯と遺産展を見た(5月10日まで開催中)

140422国立公文書館076-A.jpg
JFK展を開催中の国立公文書館(東京・竹橋 4/22) 

映像・音声付きのニュースが瞬時に届く時代だが、日本人にとって最初の日米衛星中継がJFK、ケネディ米大統領の暗殺事件であったのはよく覚えている。

日本時間の1963年11月23日、太平洋をまたぐ初の衛星中継ということで、居間のテレビに坐って放送が始まるのを待っていた我々の目の前に飛び込んできたのがこのニュースだった。

小学校4年だった自分にも大変なことが起きたということは分かった。

150422JFK展005 (3).jpg

衛星中継は当初、予め録画されたケネディ大統領のメッセージを放送する予定だったのが中止となり、日本時間で23日の午前8時58分に行った、この日2回目の実験放送で、毎日放送の前田次カ特派員が事件を伝えた。  (写真は同展の図録より)

◆当時、漫画雑誌の読み物で、次のようなJ.F.ケネディのエピソードがあったのを覚えている。
大統領になる前に来日した時、夜遅くに家に帰る日本の子どもたちの姿を目にして心配したというのだ。
同行の者に事情を調べさせたところ、学習塾に通っている子たちだとわかり、そうか、それなら日本の将来は心配ない、きっとこの子たちが国を引っ張っていくだろう、と心配が吹き飛んだ、という内容だった。

偉人伝の一部のようなエピソードで、若き大統領に親近感を抱かせる記事であった。街灯のともる夜道で心配そうに眉根を寄せている挿絵があったように思う。

だが、今回の展覧会の解説を見ると、J.F.ケネディの来日は1951年秋だが来日直後に高熱を発して沖縄(当時は復帰前)の病院に運ばれ、そのまま帰国したようだ。

そうした経緯を知ってみると、果たして雑誌にあったような出来事が実際にあったのか。
若い大統領の話題を少年誌でも盛り上げるためのフィクションではなかったか、という気もする。

◆米大統領と日本という点でいえば、前任の大統領・アイゼンハワーは60年6月の安保反対闘争の高まりに圧されて訪日を果たせぬまま韓国へと向かった(途中、沖縄に立ち寄り当時の太田琉球主席と会談して滞在2時間余りで出発しているが、この時点でも沖縄は日本ではなかった)。

そのリベンジの意味をこめてケネディ大統領来日の計画が進められたが、ダラスにおける悲運の死によって、実現することはなかった。

*******

1962年10月16日、キューバ危機

150422JFK展Rケネディメモ002 (2)−A.jpg

東西冷戦下、ソ連の核ミサイルがキューバに配備されていたことが報告されたのは62年の10月16日である。
この日、米政府は直ちに主要メンバーを集めて会議を持ち対抗措置を話し合った。
その時の司法長官ロバート・ケネディのメモが残っている(上の写真)。
左の列には海上封鎖(Blockade)を支持する者が12名。
右の列は武力攻撃(Strike)の支持者6名の名が記されている。

海上封鎖を支持する者はマクナマラ国防長官やラスク国務長官ら(3人目。「+」の記号は特に強く主張したという意味か)。
武力攻撃を支持したのはバンディ国家安全保障顧問やテーラー統合参謀本部議長ら。

左のグループにも(ー)のマークや(?)のマークが付いた者もあり、「7)」の人物などは→が右のStrikeへと伸びている。
「海上封鎖」支持に見えたのが、やがて「攻撃やむなし」(もしくは「叩くべし」)に意見を変えたということか。

12対6という差だが、方針は定まらなかった。
核戦争の危機に直面したことを物語る生々しいメモである。
軍やCIAが強硬方針、すなわち主戦論を唱えたことも(予想できることとはいえ)このメモで裏付けられる。

連日会議が開かれ、やがてテレビでの危機公表に至る。
 *なお、日本の池田首相に事実が伝えられたのは公表のわずか15分前だった。現在に続く「子ども扱い」と言うべきか。

JFK展+カザルス_0002 (3).jpg
1962.10.22(日本時間10.23午前8:00〜)テレビ・ラジオを通じて核攻撃の危機に瀕していることを公表するJFK

150422JFK展キューバ危機JFケネディメモ003 (2)-A.jpg
1962.10.25 国連安保理のキューバ危機に関する審議を見ながらケネディが書いたメモ
◆右上の2行目に[Missile]の文字がある。

*******

記録し証言すること

◆展示資料の多くはマサチューセッツ州ボストンのジョン・F・ケネディ大統領図書館・博物館の資料だが、上2つの写真のメモを含め、ほとんどが複製だ。

日本側資料には佐藤栄作の日記を含め実物の展示も多いが、いわばそれらの多くはJFKをめぐる傍証であり、JFK本人に関する一次資料について実物と複製ではやはり迫力が違う。

日米の国立公文書館共同による初めてのプロジェクトだと図録に記してある。
その謳い文句に恥じないかどうか。

◆それはさておき、上のようなメモ書きに至るまで保存され、現在は公開されていることに驚く。
情報や文書の公的な意義について彼我の考え方の違いを示しているように思う。

誰が「海上封鎖」を主張し、誰が「武力攻撃」論なのか記録して置くのは、会議に臨んだメンバーがいずれも発言に責任を持つという前提が共有されていることを意味する。
また、議論の過程がいずれ検証されるべきことも当然と覚悟していることを示す。

◆職を退いてのち証言者として使命を果たそうとするに積極さにおいても日米では違いが際立つ。
日本では、原発事故対応の政府中枢の会議やその他の閣議でも記録が存在しないことで我々を唖然とさせたように、情報は国民のもの、それゆえきちんと記録を残し、後世の検証に資するという意識がほとんどない。

*******

◆今回のJFK展で個人的に収穫だったのは1961年11月13日にホワイトハウスで開かれた、パブロ・カザルスのコンサートだ。
これに関する複数の資料が展示されていたのに、図録(¥800ナリ)には展示目録に資料名が記されているだけで、写真の方は省略されている。

*(もうひとつ残念なことを言うと、最近の美術展などでは図録を買わない見学者のために簡便な無料の展示品リストを置いてあるところも多いのに、今回の国立公文書館には置いてない様子だったこと。その一方で、本展のポスターは地下鉄の駅などで相当の枚数が掲示してあった。その経費の1%以下で展示品目録ぐらい用意できると思うが。)


◆このコンサートとケネディの印象についてはカザルス自身、詳しく回想している。
パブロ・カザルス 喜びと悲しみ』(アルバート・E・カーン編、吉田秀和・郷司敬吾訳、朝日新聞社:朝日選書、91年)

150425カザルス_08-A.jpg


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