にんげんみたいなわたし[2019年02月22日(Fri)]
月の夜には 池井昌樹
むかしうみとかそらとかあって
さかなもとりもともにいて
いまからおもえばゆめのよう
むかしあさぼしよぼしがあって
あさからよるまではたらいて
みのたけほどのくらしがあって
むかしめおともおやこもあって
まずしかったしけんかもしたが
ほんとにたのしかったよなあ
いったいいつからなんだろう
こんなところにおしこまれ
こんなところにつるされて
ときどきえさなどあてがわれたり
きりなどふきつけられたりしても
うまくもかゆくもたのしくもなく
つきのよるには
むしょうにむかしがこいしくて
にんげんみたいにないたりもして
『一輪』(思潮社、2003年)より
◆今もあるだろうか、「かきかたえんぴつ」というのがあった。
真新しい筆箱に消しゴムや鉛筆削りとともに削ったばかりのやつを何本か収めてランドセルに入れた。
池井にはその「かきかたえんぴつ」で綴ったような、ひらがなの詩が多い。
そうして、平易な表現に、もらったキャラメルに涙のしょっぱさが混じったような孤独の味がある。別題として「むかしを夢む」とでも付けたいようなノスタルジアの気分が歌われている。
◆一編は七・五、七・七を基調としている。
七五でなめらかに言葉を紡いで行くが、結びはこの詩のように「〜して」と言いさしていることが少なくない。
それは、ことばにまつわる感情が何ものかの不在から生じているからだろう。
不存在への悲しみを表現するには詠嘆で完結させれば済むけれど、言いさして一編を終えるのは、不在のものをどこまでも求める生き方を選択しているからで、それがこの人にとって詩をつくることの意味だろう。
◆籠の中の鳥のような今の姿は自分ひとりを襲った運命なのではない。
幾世代も経て生き物の進化を逆にたどってしまったかのような人間の、その一人が「わたし」なのだ、と観じているひと。