ジャコメッリの不思議さ[2018年12月30日(Sun)]
◆2018年最後の日曜日。大晦日を前にスーパーは今日も商品の一斉入れ替えに大わらわだった。
◆1960年代の初め、マリオ・ジャコメッリは神学校を日曜日ごとに訪れ、若い神学生たちの姿を撮影し続けた。
マリオ・ジャコメッリ『私は自分の顔を愛撫する手がない』 (1962-63)より。
◆上の一枚は、雪の上を神学生たちがジロトンドという、手をつなぐ遊びに興じているさまを神学校の屋上から撮ったものという。
歓声が聞こえてくるようなリズム感のある写真だ。
撮影が日曜日であったのは、印刷の仕事を生業としていたためで、ジャコメッリは次のように語っている。
撮影を行う唯一の日である日曜日はこんな具合です。朝起きてカプチーノを飲みに出かけ――そうするのは日曜日だけです――日曜日の道具を準備します。農民と同じで、日曜日は特別な日なんです。暦に日曜日しかなければ、日曜日は日曜日でなく他と変わらない一日です。一方の私は心を込めて日曜日を過ごします。ひげを剃り、いつもと同じお菓子を食べ、いつも同じカプチーノを飲むのです。反復は苦手ですが、日曜ごとにそのすべてをこなします……。というのも、反復ではないんですね。わたしにとっては連続する一つのこと。内側から生きる限り、反復は存在しません。
それから車に乗り込み、エンジンをかけ、車の気の赴くままに走ります。
あそこに行けば写真が撮れるなんて場所はありませんから、わたし自身はどこに行けばいいのか分かりません。
わたしは何かを見出す必要のある人間です。そして見出すには、寝ていてはならず、行動しなければなりません!
なので、車が行きたがっている場所を感じ取り、好きに進ませます。
ひとが「探している、求めている」と言うのには賛同しませんね。わたしは何も求めていませんし、大切なのはただ一つ、つまり探すのではなく見出すこと。
この二つは別物ですよ。同じことを言った人は大勢いるでしょうが、自分がそれを言うことに価値があると思います。
(1993年1月の対話より)
M.ジャコメッリ『わが生涯のすべて』より。
(シモーナ・グエッラ[編]和田忠彦+石田聖子[訳]。白水社、2014年ーp.184~185)
◆「探すのではなく見出すこと」とは、画家や彫刻家のみならず哲学者や科学者の言葉であっても不思議でない。
だが次のようにも言っている。
わたしは芸術については一切話をしません。
(略)
写真が芸術だなんて言ったことは一度もありませんよ。芸術を引き合いにだすことは一切しませんし、それよりも観念をもつという言い方のほうが好きなんです。
(略)
わたしは写真家ですらなく、何一つやってないんですよ。わたしは、たまに何かを思いつく一人の人間です。
(同書、p.200)
◆それにしても、以下のような写真はどうだろう。
「夜が心を洗い流す」(1994-95)
あるいは
「自然について知っていること」(1954-2000)
この作品など、複数の線と面の重なりや折れ曲がりが、奥行きと深度をもって迫ってくる。
一つの定点で撮ったのではなく、異なる高さからの撮像を組み合わせたのではないかと思えるほどだ。
こちらにいる自分は、遥か向こうを遠望しつつ、今やスキー選手さながらに滑降の姿勢でいるかのように感じさせる。手前の傾斜を滑り降りて跳ぶべく体を前掲させつつあるように感じさせるのである。
不思議な一枚である。