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岡本啓「すがた」[2025年02月13日(Thu)]

◆散歩に向かう途中、信号待ちしていたら、一台の軽トラックがゆっくり停止線で止まった。
荷台を見ると箱に行儀良く並んだトマトが満載だ。

山裾の旧道、この辺りではトマトロードと呼んで、ハウストマトの栽培が盛んだ。春一番かという日にふさわしく、今年初の収穫が市場に運ばれてゆくところだった。

*******


すがた   岡本啓


あらわれると同時に消えかかる
ことばとか息みたいだ

葉がおおきくゆれて
ふるえているのはキツネの耳
するどく動く耳が
字幕のように
キツネでいることを知らせている

ぼくはみたない
ぶらさがるトマトにみたない
ツヤツヤのひかりにみたない
ついばむ鳥にみたない
やわらかに粘るこのクモの糸にさえも

あらゆるものが
みたないなにかであるということ

岩に根をしみこませる
からからのトマトとその赤い実は
気が遠くなるほど
せかいそのもの

みたないままなおみちあふれたひとつぶ
やさしく拭いて
そうっと歯を当てる すごい

酸っぱい



 『絶景ノート』(思潮社、2017年)所収。
 小池昌代『放課後に読む詩集』(理論社、2024年)に拠った。


◆最後の「酸っぱい」まで読んで、ほんとうに口の中、両のほっぺたの内側から酸っぱさを感じた――まるで「みたない」自分の口に、欠けたものをそうっと含ませてくれるみたいに。
(詩は、そういうこともできる)

◆よほどたくさんの器官を備えていながらいつまでも「みたない」存在に過ぎない人間に比べて、いさぎよいほど赤く丸いトマトは、はるかに完全に近い。それすらなお「みたない」のだとしたら、愚図愚図悩んでいても始まらない。凡夫にできることは、畏れつつ、「みたない」自分の中により満ち充てるものを摂ることだ。渇仰する「せかいそのもの」を、かしこみかしこみ我が身の裡に迎え入れることだ。



ソホラーブ・セペフリー「住所」[2025年02月12日(Wed)]


住所   ソホラーブ・セペフリー
           (訳・鈴木珠里

「友だちのうちはどこ?」暁
(あかつき)の頃、馬に乗った男が問うた
空は静止し
旅人は口に銜
(くわ)えた光の枝を砂の暗闇に委ね
そして白楊
(ポプラ)の木を指差して言った

「あの木の手前
神の眠りよりも翠
(みどり)色をした小路がある
そこでは 愛が誠実の羽くらい蒼
(あお)
成熟の向こうから現れたその小路の終わりまで行き
そして孤独の花の方を向いて
花のところまで二歩のところ
地上の神話が永久に噴き出ているところに居てごらん
すると透明な畏
(おそ)れがお前を取り囲み
誠実に流れる空間の中で さらさらという音が聞こえるだろう
高い松の木にのぼって光の巣から
ひな鳥を捕まえている子供が居るから
その子に尋ねてごらん
友だちのうちはどこ、と」


 鈴木珠里ほか編『現代イラン詩集』(土曜美術社出版販売、2009年)所収。
 小池昌代『放課後に読む詩集』(理論社、2024年)に拠った。


◆ことばの結びつき方が、どこを取っても独得だ。かと言って奇抜なのでは全くなく、これ以外あり得いと思うほかない結びつきで印象的な輝きを放つことばたち。
――「光の枝」「誠実の羽」「成熟の向こう」「透明な畏れ」……どれも捉えがたいものたちが、具体的な姿・形を伴って立ち現れる。

うなってしまうのは「(孤独の)花のところまで二歩のところ」だ。
ここまではっきりと示されれば、何をおいてもそこに足を運ばずにはいられない。
それでいて、どこまで行ってもたどりつかない無限のかなたにあるような気もする。
それでも行こうと思う。「友だちのうちはどこ」と問うために。

※編者・小池昌代の注によれば、ソホラーブ・セペフリー(1928-1980)はイランの詩人。1960年には日本に彫刻を学ぶために来たこともあるそうだ。
また、イランの名匠アッバス・キアロスタミは、この詩に触発されて『友だちのうちはどこ?』という映画を撮ったとのこと。
観ておかねば。


ヴァルザー「さらに前方に」[2025年02月11日(Tue)]


さらに前方に  ローベルト・ヴァルザー
              (訳・飯吉光夫


ぼくは立ちどまりたかった。
でもぼくは、黒い木立ちのそばを通って、
さらに前方に駆りたてられて行った、
その黒い木立ちの下で
ぼくは不意に立ちどまりたかったのだけれど。
ぼくは、緑の草はらのそばを通って、
さらに前方に駆りたてられて行った、
その緑の草はらのそばで
ぼくはしきりに立ちどまりたかったのだけれど。
ぼくは、まずしい家並みのとある一軒のそばで
ぼくは立ちどまりたかったのだけれど。
まずしい暮らしの様子を眺めながら、
その家から煙がゆっくりと
空に立ちのぼるさまを眺めながら、
そのままじっと立ちどまっていたかったのだけれど。
ぼくはそう言って笑った。
緑の草はらも笑った。
煙はいかにも煙をおもわせるそぶりでほほえみながら立ちのぼった。
ぼくはさらに前方に駆りたてられて行った。


 飯吉光夫編訳『ヴァルザーの詩と小品』(みすず書房、2003年)所収。
 小池昌代『放課後に読む詩集』(理論社、2024年)より


◆こよなく散歩を愛したというヴァルザー(1878-1956)の詩。

「立ちどまる」とは一所に足をとどめ、そこでしばらくを過ごすこと。滞在や定住をも含むだろう。そうしたいのに「さらに前方に駆りたてられ」てしまうのは、何ものかの声が聞こえ、その姿が見えているからだろう。
もし今どきの自撮りカメラで録画してみれば、初めのうち「ぼく」の様子は不安そうであったかも知れない。
だが「黒い木立ち」から「緑の草はら」へと色彩も変わって行くのが示すように、こわばりは取れ、笑みさえこぼれる。まわりもそれにつられて笑う――草はらや煙が表情を伴い、彼らと「ぼく」との間に交歓が生まれる。そのような世界との付き合い方もあるのだ。




貞久秀紀「体育」[2025年02月10日(Mon)]


体育  貞久秀紀(さだひさ・ひでみち)


ひとの世
には
こころをこめた体
があるように

をこめたこころも
ひとの世にはあるかもしれない

あるきながら
考えている
あるきながら考えていると
考えながら歩いてもいた
昼の
垣根がある
むこうからひとがあるいてくる
すれちがいながら
垣根ごしに会釈をかわし
それきりで
過ぎ
ふたたび会うこともなかった
けれど
会釈をするとき
こころ
には
体がこめられた
そんなふうに
かろやかにすれちがうのだった


 『昼のふくらみ』(思潮社、1999年)所収
  小池昌代『放課後に読む詩集』(理論社、2024年)に拠った。

◆「こころ」と「体」を普通とは逆転させて、ふと考えさせる。

本来、この二つは一つのものであったろうに、便宜上二つに分けて考えようとするところから様々おかしなことが生じる。
ついにはこの二つが仇同士みたいに対立するものであるかのように扱ったりして、とんでもない不幸を招いたりする。
「この世界には男と女、二つの性しか存在しない」と妄言を口走った米大統領など、その典型だ。

◆会釈という心身一如のふるまいが、ある刹那に交わされる――何という優雅なふるまいだろう。
「拈華微笑」(ねんげみしょう)という仏教語がある。「以心伝心」と同様、ことばによらず、心から心に直接伝える、という意味で、昔から好きな言葉の一つだ。
この垣根越しにすれ違った二人が行ったのは、まさしくそれだ。
(そのことに「体育」というタイトルを当てたことも可笑しく、同時にハタと考え直させる。)




冬の実たち[2025年02月09日(Sun)]

マサキの赤い実、だいぶ減った。
つややかな色を誇らしげ見せる実もあれば、割れてしまったものも。

DSCN2739マサキの実A.JPG

DSCN2734.JPG

メジロやヒヨドリが現れてもいいのだが、昼日中のせいか、彼らの姿は見えない。
でも木の下には、鳥たちのフンが置き土産のようにたくさん落ちている。

***

◆マサキと対照的に地味な色のキヅタの実は、今のところ誰もついばみに来ないようだ。

DSCN2741キヅタの実-A.JPG

実は黒褐色というのか、いかにもシブイ。そこがいいと寄って来る鳥だって居そうなものだが、未だ熟していないのだろうか。

DSCN2744.JPG

それにしても、草木や鳥、虫たちの生態を殆ど知らないことに愕然とする。
――さて、彼らの方は人間をどんな風に眺めているのだろう?……どうにも食えないやつ、とでも?








田島三男「ことば」[2025年02月08日(Sat)]

◆詩集『ビー玉の家』からもう一篇――


ことば  田島三男


よいことばほど
とおくまで
人を歩かせてくれる
愛する人を残して
人に旅をさせる
陽を仰ぎ
あせを流していると
そんな旅を忘れてしまう
ひとにぎりの憩いのために
ふたにぎりの
苦しみをいとわない
それでもまた
よいことばに出合うと
なまけものになって
ぶらりと歩き出すだろう
愛する人が口にしない
ことばを
どこかで愛しているから

古い本からあふれることば
旅人の語ることば
よっぱらいのことば
道端におちていることば
ことばの中でも上等なものは
魚屋の店先の
サカナの目に似ている
死んだあとで何かを語る目は
一等のことばのように
むき出しにさらされている
思い切りよく泳いだ姿は
ことばに似ている
よいことばは
そのときいちばんよいから
いつまでも上等だ
考えようとするまえに
ことばは力強く人を歩かせている

よいことばには
必ずしも深い考えがあるのではない
考えすぎることは
からだを疲れさせるが
結局たいして考えていない
よいことばは
人を亡くすときの涙に似ている
むずかしい理屈をこねなくても
あふれる涙は
よいことばに似ている
人を動かし人を殺し
人を納得させる
一等のことばには深い考えよりも
今日燃え尽きることへの共鳴がある
一等よいことばは
人を緩慢に殺し
人にそれを止めさせない
よいことばは
死んだあとも旅をさせるが
実はどこにも行かせない


  田島三男(たしま・みつお)詩集『ビー玉の家』(土曜美術社出版販売、2024年)より


◆「ことば」の射程距離は遠いほどよい(時間の上でも空間的にも)。
無論ここでは、ことばの物理的な性質を言っているのではなく、ことばに出会うことで人を突き動かしたり、ある感情や思念を現在、もしくは未来において呼び起こすもののことを言っている。

冒頭および締めくくりに置かれた「よいことば」が持つ力・作用を久しくかみしめたいものだ。




田島三男「ヒューマン」[2025年02月08日(Sat)]

    
ヒューマン  田島三男(たしまみつお)

Humanという単語を見ていると
フマンに見えてくる
人の不平不満を嫌がるのは
人間らしさを否定することだと
文字に叱られる
みんなが不満をこぼさなかったら
どんな世界になるというのか
お坊さんばかりの社会になりそうだ
不満を言う人もいれば
我慢して乗り越える人もいる
それぞれの立場でものを言うとき
愛がなければただの不満だ
不満を言うなとカッカするのは
愛する余裕がないということだ
心に余裕を持とう
あなたの不満なら
もっと聞いてもいいよと


  田島三男詩集『ビー玉の家』(土曜美術社出版販売、2024年)より

◆確かに生意気な分別盛りに学習する(させられる)異国の言葉というものは、斜(はす)に構えてイジリたくなるスキがある。
(「enough」という単語に発音と関係なさそうな「g」が挟まっているのも気になったことがある。「十分な」というその訳語の「ジ」は、「g」とひっかけて遊んでいるのか? などと頭が脇道にそれてしまうから語学はついに身につかなかった。)

◆それはさておき「Human」をフマンとローマ字読みした記憶は自分にもある。ただ、それ以上想像を広げも掘り下げもしなかったのは残念だった(きっと、フマンを口にするのは男らしくない、などと誰かに吹き込まれていたのだろう)。

愛のない「ただの不満」もそれはそれでいいじゃないかと天邪鬼な自分は思うのだが、「不満を言うなとカッカする」了見の狭い道学者ふぜいを一蹴してしりぞけているのは賛成だ。相手も己もカッカせず、丸ごと人間を愛することができれば、摩擦も戦争もなくなるはずだから。
(ただし外交は別。トランプ相手に我慢や丸呑みはするなよ、イシバくん。)


 
鈴木淳史氏のポゴレリッチ・リサイタル評[2025年02月06日(Thu)]

◆朝日の今日2月6日夕刊、鈴木淳史氏の音楽評に驚愕した。
イーヴォ・ポゴレリッチのピアノリサイタルを聴いての感想である(1月29日、サントリーホール)。
今年は聞き逃したけれど、かねてこのピアニストが進む先は気になっていた。その現在を伝えてくれている。

前半のモーツァルトに聴き取った「得体の知れぬ不安さ、憂鬱さを…体感」がこの評の見出しになっている。「後半は目的を見失って彷徨(さまよ)うショパン」であったという(ソナタ第2番)。

驚いたのはアンコールについて記した最終段落。そのまま引く――

やんやの喝采を制し、アンコールにシベリウスの「悲しきワルツ」を弾く。悲嘆や感傷といったものを乗り越える和音の精妙さ。長調部分でのきらびやかなワルツは、悲観が高じて限界に達し、もう何もかもどうでもいいやとばかり、自由で軽やかな境地へと転じたかのよう。世界が最期を迎える瞬間、世界中のスピーカーからこの演奏が流れる光景が脳裏をよぎった。
(下線、引用者)

時代のなかで生きているのは、音楽家も批評家も同じだが、表現者はひとの何倍も傷つき懊悩し模索し、祈る、その内面はうかがい知れない。
聴き手が唯一それに近づくのは音楽が生まれる現場に居合わせた時だ。すなわち同じ空気の中に在って同じ空気を呼吸した時だ。ホールの外も海の向こうも同じ空気のなかにあることをともに感じているときだ。
その場に居なかった人間にそれを伝えようとする批評家の筆はいきおい、不可能に近いことを何とかしようとするほかない。
そうであるにしても、下線を引いた最後の文章――終末を迎えた世界のくまぐまに流れるポゴレリッチのピアノ――この世の終わりを開いて見せた音楽に覚えた戦慄の光景を、このように読者に伝えようとした人がかつて居たかどうか。






橋本俊幸「月光」[2025年02月05日(Wed)]

橋本俊幸詩集『青空に星は見えない』から、昨日の「夕空」に続く一篇――



月光   橋本俊幸


ここが どこなのか
わからない ということが
わかってしまった

あれは 月ではない
あれは 月が照る光ではない

闇夜の 空のあそこに
半円の月のような形に
切り抜かれた 穴があって
そこから漏れる
むこうの世界の
白い光に ちがいない

ここは どこなのか
ぼくたちは だれなのか
わからない ということが
照らし出される


 橋本俊幸詩集『青空に星は見えない』(土曜美術社出版販売、2024年)より

◆空に開いた半円形の穴から光が漏れている、と感じられるまでには、ここでも相応に長い時間、空・月を見つめ続けていなければならない。

(たいていの人にとっては、「今夜は半月だな」とか、「そうか満月だった」などという感想を持ったとしても、それは一瞬のことで、その人はその夜、再び空に目を遣ることはおそらくあるまい。さまざまなことに紛れる日常が、帰宅し床に就くまで未だいくらも待ち受けているからだ。)

◆昨日の「夕空」同様に、空の月に目を奪われている人間――そのあいだ詩人の心に去来したものを想像する。

夕方あるいは夜に、空を仰ぐ短からぬ時間を持つことを習慣とするに至る、人間の内面を、ある質量を伴うものとして心に受けとめてゆく。

◆空から地上にもたらされる光ほど「わたし(ぼくたち)」の心の奥を照らし出すものはない。
そこに何が蹲っているのか、それとも何もない虚ろな小世界があるに過ぎないのか――いよいよおそれおののくしかないのではないか。



橋本俊幸「夕空」[2025年02月04日(Tue)]

◆鳥たちにとって食べるものの少ない冬は、どこでどうやって過ごしているのか。
少し前まで散歩道にふんだんにあったトウネズミモチの実など、あっという間に食べ尽くして、彼らの賑やかな午餐の姿はもうない。

DSC_0558.jpg

久しぶりに群れていたのは、たぶんメジロ。葉を落とした枝々に姿があった。


******


夕空   橋本俊幸


土手に駆け上がると
風が渡り
空が大きく開けた

沈みゆく夕日が
金色に雲の縁を輝かせ
朱には黄色を
紫に灰色を
そして淡い紅色を
重ね滲ませ 空を彩る
漂う雲のうしろで
時はうつろい紫紺は深まる

美しさに圧倒されて
見上げ立ち尽くす

果ては
空の果ては 如何なるところか
ふと足元が
拠り所を無くし揺らぐ
ここは 何処なのか
わたしが生きる この世界とは
日が沈む西方の空に
いつしか星がひとつ輝いている
何か語りかけるようなその瞬きから
言葉を聴きとる力をわたしは持たない
ただおとなしく 畏れを抱く


橋本俊幸詩集『青空に星は見えない』(土曜美術社出版販売、2024年)より


◆夕焼けの美しさに息を吞むことがあっても、それを何かで表現しようとしてうまくいくことはそうそうない。

詩の第二連で様々な色が試みられているが、言葉の限界と不自由さを人一倍感じているのも詩人自身ではないか。
受け取ったものが大きく深いほど、もどかしさもまた大きい。



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