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網谷厚子「A I レクイエム」[2026年01月14日(Wed)]



A I レクイエム  網谷厚子


さめざめと泣いている 顔を覗き込むと まん丸の目玉
の端から とめどなく水が流れている 脳内の貯蔵タン
クが 空っぽになったら ピタリと止んだ なぜ と聞
いても さくさく応えてくれない 人工皮膚は乾きやす
く 悲しみも晴れやすい お帰りなさい 行ってらっし
ゃい 今日何かありましたか それとなく気遣う きめ
細やかさもほどほどに 家人としては申し分のない分際
で あれ と言ってもすぐ持ってくる なんだつけ と
言ったら これですか と複数回答してくれる わたし
の脳を共有しているように ふわふわした 兎の着ぐる
みをかぶり ピョンピョンとわたしに抱っこされに来る
ときもある たぶん わたしが抱っこしたいと思ったか
らなのかもしれない パロからペッパー さらに アン
ドロイドへと A I ロボットは 人間に限りなく近づい
てくる 人間より人間らしい すでに人間を遙かに超え
た 完全無欠な相棒が わたしたちのすぐそばにやって
来る日も近い スーパーマンが宇宙人だったように わ
たしたちは やすやすと種の壁を超え バリアフリーへ
と 突き進んでいく 毎朝 お出かけ前の A I による
ニュースを公共放送で聞かされ A I のホーム放送で
電車に乗り込む 学校では タブレットのA I 教師を見
つめ 授業を受けている 子どもたち どんな質問をし
ても はぐらかすことなく 瞬時に答えてくれる優秀な
教師 要らなくなる職業が あれもこれも 増え続け
巷には 職を求める人で溢れる A I を修理する技術者
は 何人いても足りない 半導体が供給されている間
レアメタルがなくならない間 電気量が くまなく供給
されている間 地球に残された人間たちが 健康を保ち
続けられている間 A I ロボットの涙が乾いても わた
したちの涙は 乾くことがない


  『ひめ日和』(思潮社、2024年)より


◆ A I 大流行の当節、カスミを食べて生きているわけではない詩人もクラウドの世話になっていたりする。
煩わしい人間関係を感じないで済むなら、人間以上の理想的な相棒であるかも知れない。

◆縦書きの原詩を、上のように横書きで入力しながら眺めていると、「 A I 」 は「アイ」と読めることに気づく。略語の原義から離れて、「逢い」「相」などと文字が浮かんでくる。テクノロジーが新たな出逢いを生み、人生の相談相手にすらなってくれそうな、相棒としての A I ロボットだ。
「愛」や「哀」も分かち合えるかもしれない。
ひょっとして、こちらの寿命が尽きた時には、親兄弟よりもさめざめと哀しんでくれるかもしれないではないか。
もっとも、その時にこちらの涙はもはや干からびていて、主人の死を確かめてから「彼(彼女?)」も嘆くのを止め、動きを終えるだろう。少なくともそうプログラムしておかないと、おちおち死んでいられない――そんな気がする。




網谷厚子「搏動」[2026年01月12日(Mon)]

DSCN3995.JPG
チンゲンサイの花だろうか。アブラナ科の野菜なのは確かだが。

***


搏動   網谷厚子


道端で 突然泣き崩れた人がいる 泣き声は 幾本もの
棘となって わたしを突き刺す とめどなく流れる涙は
翡翠となって ころころ転がっていく 声はあげなくて
も わたしの眼から 溢れるものがある その人の震え
る肩を抱き さすりながら その人の悲しみを 分け合
えたら できることなら その深みへと続く 険しく凍
った道を ともに歩きたいと思う 空は遙か彼方まで透
き通り 何ごともなかったように輝いている 終わらな
い砲撃で 上から押し潰されたように こなごなに崩れ
た壁 家具 撃ち抜かれ ぐにゃりと折り曲がった足
落とし物のように 放置された屍 隠れようのない大地
で 宇宙からも捉えられる事実が なかったように伝え
られる 向こう側の刃の意図 破壊され尽くした 瓦礫
の中を 進軍する戦車の群 ドローンが獲物を探し 攻
撃する 一般市民 という無防備な標的 傷つき病んだ
人々の最後の砦にも 落とされる爆弾 徴兵され 鍬の
代わりに持たされる鉄砲 撃ち方も知らないのに 市民
も 女 子ども 老人たちも 兵士とともに 殺戮され
る 増え続ける 犠牲者たち 弱い者 武器を持たない
者の命が 奪われる理不尽 大災害で消える命を数えて
いる間に 何十 何百倍もの命が 惨たらしく 殺され
ていく現実に わたしたちは いつまで耐えられるだろ
う 残酷な映像を 見せ続けられる わたしたちの旅は
終わらない 戦争を止めさせられないばかりか 武器を
送り続ける大国の 罪 温室効果ガス削減にも本気で取
り組まない自国の 私腹を肥やす為政者の 怠慢 搾り
取られる税に喘いでいる 民 道端で わたしが倒れ 
息絶えても 伝えられることはない 世界に張り巡らさ
れた蜘蛛の巣から 漏れていく 小さな命 声はなく
零れる涙は 乾いたアスファルトに 消える 伝えられ
ない 夥しい命が 報道の外側で 最期の搏動を打つ
祈りの鐘のように


   網谷厚子『ひめ日和』
(思潮社、2024年)より


◆冒頭、突然泣き崩れた人――内側から決潰したようにくずおれた人の慟哭――地上を覆う没義道の暴力がもたらしたものだ。

「わたしたちは いつまで耐えられるだろう」――このことばが鉛の銃弾のように我々を射抜く。


国会を開いたらすぐ解散、などと、アベ政治を繰り返して遊ぶな!


 
塔和子「作ったものの意のままに」[2026年01月11日(Sun)]

DSCN4002.JPG

ビワ(枇杷)の花のようだ。たくさんの茶色いつぼみの中に咲き始めた白い花。
つぼみは毛糸で防寒対策を施しているように見える。
ビワの少しざらざらした実を食べるときに、このつぼみの姿を思い出すに違いない。

***


作ったものの意のままに   塔和子


チョコレートと餅の味の違いについて
果物と野菜の味の違いについて
獣肉と魚の味の違いについて
わかり切ったことだから誰も言わない
でも
それぞれの味が違い
この世の食物の種類が豊富であることは
多分喜ばねばならないだろう
たとえひと匙の宇宙食で命をたもつことが出来る
時代が来ても
この舌が豊富な食物の味を知っているかぎり
決してそれに満足しないだろう
薬で生きることはいや
注射で生きることはいや
食べて排泄して生きるように作られているのだから
作った者の意のままに在りたい
私は
目の前のひとかけらの餅を見る
餅がいつの頃から在ったかなどどうでもよい
故郷のいろりで焼いて食べた餅の味
定着農をはじめ
毛皮を腰にまとった
人類の元にさかのぼる
素朴な幻影と思い出を重ねて見る
視る
観る
ひとかけらの餅を


  塔和子『記憶の川で』
(編集工房ノア、1998年)より


◆「多様性の尊重」と建前を述べ立てても実態が変わらないことの理由の一つに、五感に基づかない、肉体からを離れた言葉を発していることがあるだろう。

この詩は「食べる」という、いちばん根源的な生のいとなみ、それを司る「舌」に「ことば」を載せる。
「ことば」もまた、生きることを支えている。

ひとかけらの餅は古代から現在に至る人の営みが生んだ糧であり、時間の堆積を内に包み持つ。
それを「みる」「私」はその歴史の堆積を餅に〈見る⇒視る⇒観る〉
ひとかけらの「餅」からそれを作った人、農のいとなみ、土や水、それらをもたらしてくれた大いなるものの恵みまでを見つめる。
そのようにして、いわば、眼によっても「餅をあじわう」のである。

そうした感覚を持たずして、さまざまな食べ物の何を味わうというのだろう。



塔和子「記憶」[2026年01月10日(Sat)]

DSCN3998.JPG
緋寒桜

***


記憶  塔和子


呼び起こそうとすれば
いつでも新しく浮かび上がってくる記憶よ
鼻や目や手が覚えている
古い一枚の画を
再び描き出すのにはなんの苦労もいらない
人に記憶という
こんなすばらしいものを与え給うたものよ
私はその神聖な鏡を
日夜毎夜磨いてくもりないものにする
だからいつでも
目の前に起こっていることのように
鮮明に私の記憶は描き出される
そして
春の日溜まりに
思い出を飼いならしてうずくまっている老人のように
うっとりと
それを眺めて暮らす日の多いこの日頃を
ふっと
考える


 塔和子『記憶の川で』(編集工房ノア、1998年)より 


◆前回の「記憶の川で」の二種類の記憶で言えば、「覚えておきたいと願う記憶」に春の日差しを当てたような一篇だ。

記憶が画像としてのみ浮かんでくるのでないこと、嗅覚や手ざわりによってまざまざと身体に刻まれていることを知って我々も驚きを覚えることがある。
だが、この詩人にあっては、その記憶が、希少な美術品などよりさらに価値あるものとして、目の前にありありと立ち上がる。
ホコリを払わないと輝きが現れない骨董などでなく、いつでも魔法のようにくもりない姿で目の前に現前させることができる。

母の顔やにおい、きょうだいの肌の感触、友の声――それらかけがえのない記憶をくもりなく思い出せるように、どんなに心をこめて記憶という鏡を丹念に磨き上げてきたことだろう。




 
塔和子「記憶の川で」[2026年01月10日(Sat)]

DSCN3988.JPG

冬なのにサツキが咲いていた。


***


記憶の川で  塔和子


忘却という言葉さえ
それは在ったということを消しようのない
証しとなる
生きて暮らしてそれを忘れたい
心のかたすみのくらいところで
そんなことがささやかれるときも
思い出として残る事象の
ずっしりとした手ごたえに圧倒される
人はいつも
忘れたいと願うことや
覚えておきたいと願う記憶の川を下って
流れの元は忘れていない
それを暖める故に
あるとき
ふっと忘れてかるくなりたいと思ったり
折り重なる思い出の上に豊かにいたいと思ったりするのだ
自己の変革を企てても
うまく成し遂げたと
自ら喝采
(かっさい)することの出来ないことを
知りつくしている
さびしい生きもの


塔和子『記憶の川で』(編集工房ノア、1998年)より


◆詩集の表題詩。

冒頭二行からすでに、「忘れたい」記憶のつらく苦しい時間を生きて暮らしてきたことの長かったことが伝わってくる。

それだけに「覚えておきたい」と心から願う思い出の輝きを見失いたくない。
それもともに含んで思い出の「ずっしりとした」手ごたえであるからだ。

記憶の川を下る舟の舵は、ときに指がちぎれ、川に放り出されそうになるほど激しく動く。
だが、決して手を離さない。この川は自分がこれまでもこれからも生きて下る、わたしの川であるからだ。

「流れの元は忘れていない」とは、何という腹のくくり方だろう。
自己の生涯を引き受ける覚悟とその孤独が心にしみる。

***

※中教審の次期学習指導要領の議論が進んでいる。その中で、「自らの人生を舵取りする力」という標語が案出され、もてはやされている。
これまでの「生きる力」の進化形なのだろうが、上の詩に比し、なんと軽いことばなんだろう。
まるで川面に浮かぶあぶくのようではないか。
しかもこの標語、背中に「自己責任」の四文字が透けて見えるのをいかんともしがたい。






塔和子「無」[2026年01月08日(Thu)]

DSCN4005.JPG

寒さのなか、身をすくめているが、ストックの花らしい。

* * *


無   塔和子


手のひらをひらくとなんにもない
無いことは無限に所有する可能性をもつことだ
幸も
不幸もこの手がつかむ
いつも
無にしていよう
無にしている手の中へは宇宙の翼
もっとも大きな喜びが乗る
私は無から生まれた
だから無はふるさと
いつもはじまるところ
朝の光よ瞬間瞬間の生の切り口よ天に吊るした希いよ
私が
手のひらをいつまでも無にしているのは
あなた達のため
ああそして
私の手のひらは生きるよろこびでひとときふるえ
すべてを無にして
また差し出すのだ


 『記憶の川で』(編集工房ノア、1998年)より 

◆「無はふるさと/いつもはじまるところ」という一節に寛やかなこころを手渡される思いがする。

以前引いた詩にも
〈思い出と/希望の谷間の深い無〉
という寸句があって驚いたことがある。
塔和子「かずならぬ日に」
https://blog.canpan.info/poepoesongs/archive/2489

◆「無いこと」は「無限に所有する可能性をもつことだ」という。
それは「朝の光」や花たちに教わったものだろう。
だから、「所有すること」でなく「所有する可能性をもつこと」で十分なのだ。
明るく暖かな空気や美しい花が与えてくれる「生きるよろこび」にひとときでいい、心がふるえること――それだけで人は無限の可能性の前に立つことができる。

そのような素朴な原点は、同時に、向かうべき無限の彼方の一点でもある。
だから「すべてを無にして」その手のひらを「差し出す」ことができる。

差し出された「手のひら」はきっと失せない輝きを帯びて他の誰かに再び「生きるよろこび」をもたらすだろう。

「無」はゴールドでもパワーでもプライドのようなこせついたものではない。
それらのすべてとは全く別の「かけがえのないもの」の謂いである。




塔和子「地球で」[2026年01月07日(Wed)]

DSCN4006.JPG
冬の日ざしとスミレ




地球で   塔和子


この惑星の一つにすぎない地球で
そのほんのひとすみのことを知っているだけでも
生きているだけならことかかないのだ
書物からの知識やテレビやラジオの伝えるものを加えても
世界中の人がかなでる出来事にくらべたら
ほんのわずか
私は冬の日
カーテンをしめストーブをたき
冬眠のへびのようにじいっとうずくまって
他人の視野の外側にいる
そんな自分を思うとき
人の知ることそれは
一本の樹が芽生えて古木になるまでに
知った世界にさえ
くらぶべくもないほど小さい


  『記憶の川で』(編集工房ノア、1998年)より


◆ハンセン病回復者の詩人として知られる塔和子だが、紗を通して届けられるような魂の輝きはどこから来るのだろう。
侵しがたい尊厳を感じる。




塔和子「食卓」[2026年01月07日(Wed)]

DSCN4062.JPG

クロガネモチ。去年の箱根駅伝の折に見つけた樹。ことしもたわわに実をつけた。

*******


食卓   塔和子


木の葉が音もなく落ちる
草が立ったまま枯れている
霜が白くおおっている
うたげの後のしずけさに似て
大地はいま季節が喰いちらした食卓
自ら見事に盛りつけした緑の料理に
美しい花やつややかな実をあしらった大地よ
季節はいまそのすべてをたいらげ
やがて降る雪の下で
静かに静かに消化はなされる
そして
苦悩のむれる匂いの中で思考する大地よ
おまえはまた
新たにふき上げる
みずみずしい緑をつややかな実を
そしてやはり
大地は料理人であり
季節は旺盛な食欲である


 『記憶の川で』(編集工房ノア、1998年)より

◆「大地は料理人」を単に擬人法と解すると、大地や自然ぜんたいを軽んじ、人間のおごりを語って恥じないことになってしまう。
本質はその逆、人間は、大地のわざ、自然からの恵みを、見よう見まねで手を加えいただいている、まことに小さな生きものに過ぎない。






カヤの外だった高市首相――閔妃暗殺を忘るなかれ[2026年01月05日(Mon)]

◆アメリカのベネズエラ攻撃の直前、高市首相はトランプ米大統領と電話会談していた由。
作戦開始を目前に控えてトラ氏は匂わせもしなかっただろうが、タカ氏から話を振ってみたとも聞かない。全く予想もしなかったとするならお屠蘇気分で意味のない会話を交わしたと判断するしかない。
だから、事態が勃発してもコメント一つ出せなかったわけだ(ようやく今日、タカ氏のSNSでコメントが書き込まれたようだが、それが全く無内容なことにまた驚く。)

◆日本政府のノー天気ぶりは深刻だ。
スパイ防止法など弄ぶヒマがあったら、無能政権を作らせない「ヌケサク防止法」を考案した方がよほど国民のためになる。

「外交」を口にするなら、相応の情報網を「同盟国」についても張り巡らして置く必要がある。情報戦は仮想敵国に対してのみ必要なのではない。
仮に、ベネズエラが統御不能の混乱状態になったり、トラ氏への反発が米国の内からも外からも巻き起こって経済にも波及するならば、たちまち日本の財布も干上がり、国民生活はただの風邪で済まず肺炎状態に陥るのは明らかだからだ。

そのような事態に備えるのが経済安全保障というものなのではないか?――良く知らんけど。

◆しかし、一国のトップを暴力的に拉致するという蛮行に及び腰の国々が少なくないことに改めて驚く。自由と民主主義を唱道した大国がただの「ならず者国家」に堕した事実を認めれば、それぞれの国の正当性にも疑問符がつきつけられることを恐れているのだろうか?

◆そういえば、「同じ価値観を共有する」と言い続けてきた日本も、1895年というから、130年前、朝鮮王朝高宗の妃、閔妃(ミンビ)を暗殺するという蛮行を働いた歴史がある。
親露派の台頭を防ぐために日本の公使・三浦梧楼らが朝鮮王朝の宮廷に侵入して閔妃を暗殺したという事件である。
親日派政権の成立を目論んだものだが、結果は逆で、朝鮮民衆の反日感情が高まって反日武装闘争が生まれるに至り、日本側のもくろみとは逆に、親露政権が誕生することとなった。

◆タカ氏も、この歴史をふまえてトラ氏に助言していたなら、トラ氏の再認識をかちえるばかりか、南北アメリカの混乱を防いだアジアの名宰相として後世に語り継がれたのではないか?――もう、そのチャンスは遠のいたけれど。

*******

DSCN4003.JPG

先日、林の近くで見かけたノラのトラ猫。
独立不羈の相貌はトラ大統領より頼もしい。
タカ首相も飼い猫の地位に甘んぜず、孤高の精神を見習ったらいかがか。



ベネズエラ攻撃、日本政府の無反応をなぜ伝えない[2026年01月04日(Sun)]

◆ベネズエラへの米軍攻撃とマドゥロ大統領の拘束・拉致という野蛮に震撼とする。
いかなる理由を主張しようとも、主権国家に殴り込みをかけてトップの首をすげ替えようなどという行為が許されるはずがない。

◆朝7時のNHKニュース(総合テレビ)では国際部記者による解説があり、国連やフランスなどの反応を伝えた。
だが、日本政府の反応はナシ。
ベネズエラ本土への攻撃はその前日に行われており、それだけで驚天動地の事態なのに、メディアとして日本政府の対応を探っていないはずはない。
かねてアメリカが派兵を示唆していた以上、ワシントンでの取材を進めながら、いざ現実のものとなったときに、国内組のNHK政治部も日本政府の反応をとらえる態勢で臨んでいたはずだからだ。

TVのデータ放送のニュースを確認したが、諸外国の反応は驚くほど多数書き込んである。だが、日本政府の反応やコメントは首相、外相、官房長官、誰一人として何かを語った形跡がない。

◆ここからは想像だが、今回の軍事行動は「同盟」国であるアメリカのしわざであるために、政府としての発言や論評は避け、他の国々の反応や国連の動きその他を確認するまで手控えているのだろう。
だが、「事態の推移を重大な関心を持って注視したい」程度の型どおりのコメントすら出さないのは合点がゆかない。

首相以下新年会で忙しいのか?そんなことはあるまい。
現に、その後、北朝鮮の日本海に向けたミサイル発射がなされた件では小泉防衛相が取材に応じてコメントしているのだ。そのときにアメリカのベネズエラ攻撃について見解を問う機会はあったはずだ。
仮に「その件はノーコメント」という返事しかなかったとしても、「ノーコメントだった」と報じること自体に意味がある。この国の責任者たちがこうした事態にどう対処しようとしているか、もしくは論評せずアメリカ追従・蛮行黙認を続けるつもりなのか、国民にとっては自国政府に対する判断材料となるからだ。取材はそこを追及し、「政府コメントせず」をしっかり伝えることも意味のある報道だ。

◆そう考えてくると、政府の腰の退けた沈黙に切り込まない公共放送・NHKの沈黙と不作為それ自体が民主主義にとって脅威になっていると思われてくる。

「放送百年」を喧伝していたNHK、実は戦前からの翼賛報道体質を今なお引きずっているのではないか?



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