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calendar広島でこれから行われる、様々な平和のための取り組みをご紹介します。こちらもぜひチェックしてみてください。
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戦略 [2012年02月05日(Sun)]
お久しぶりです。倉庫番です。
恥ずかしながら、倉庫番の都合で1年半以上にわたって開店休業状態でしたが、細々と営業再開したいと思います。

再開第一弾は、まだ調べもの等があまりできていないので、最近の話題についての雑感から。

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1月29日、広島大学平和科学研究センター主催のシンポジウムをピースビルダーズも共催させていただいたのですが、そこでなかなか示唆的なことが話されました。
そのシンポは「広島、そして福島の復興」というタイトルで、昨年3月11日の地震・津波そして原発事故で被害を受けた福島からもパネリストをお迎えし、広島の戦後と福島のこれからについて語り合い、復興の在り方について考えるというものでした。
(詳しくはこちら

ここで何人かのパネリストに共通した見解だと感じたのが、放射線という見えない不安を抱える福島の方々が今望んでいるのは、信頼できる情報とそれを踏まえた長期的な生活再建戦略であるということ。
原発に近く複雑な状況にある南相馬で市民復興会議委員を務める田中章広氏(原町青年会議所2012年度直前理事長)からは、「ゴールが見えれば走ることができる」というお言葉もありました。

不安を抱えながらも、力強く草の根から故郷の再建を支えようとする人が必ずいることは、戦災や災害のあった社会にとって大きな希望であるとして、それをあきらめさせない大きな戦略が不可欠なのだと思いました。
広島でも、戦後公職選挙による初めての市長となった浜井信三氏が優れた戦略家であったことは、復興にとって重要なことであったとのことです(詳しくは下の参考文献参照)。

もちろん、単に思いつきで声高にああしろこうしろというだけでは戦略とは言えませんね。
広島でも、それまで軍都であったという文脈をきちんと踏まえてこそ平和記念都市という戦略が意味を持ったように、福島でも高度経済成長の中で中央に人を供給する地方であったこと、事故が起こるまで行政は原発を推進してきたことなどを踏まえた上で、これからの新しい姿はどうなるのかを示してこそ、住民にも周囲にも説得力のあるものになるんだろうなというのが、このシンポの全体を通して感じられました。

このブログは「手づくり」が趣旨ですから、カリスマ的な指導者が出てくればいいと言いたいわけではありません。そして実際に、市民復興会議が立ち上がっていたり県外避難者の方(このシンポのパネリストにもなっていただきました)も署名運動など独自の努力をしておられるなど、新しい福島を作っていくのは市民の力だと思います。
ようやくブログを再開したので、また戦後広島のそうした市民の行動を、調べていきたいと思います。


【参考文献】

篠田英朗「平和構築としての広島の戦後復興」『現代平和構築活動の視点から見た広島の戦後復興史』IPSHU研究報告シリーズNo.40


倉庫番@ピースビルダーズ
生きる [2010年06月10日(Thu)]
昨日6月9日、広島サロンシネマで開かれた、井上ひさし追悼「父と暮らせば」上映会に行ってきました。
8月6日の6と8月9日の9で、6.9に開催したのだそうです。

告白すれば僕はこの有名な作品をお芝居でも映画でも見たことがありませんでした。
生きることが申し訳ないと思いながらそれでも生きた原爆後の広島の人の心に、少し近づけた気がします。見ておいて本当に良かった。
こんなブログをやっているからには見ておかなくてはいけなかったとも言えますが。

もちろん当時の人の気持ちを僕が代弁するつもりはありません。
しかし、井上ひさしさんのお話に常に見られるような人間全体へのリスペクトの気持ちをもって、今の僕たちの周りの問題とも共通する大切なこととして、このブログで戦後広島の取組を紹介していこうという気持ちを新たにしました。

倉庫番@ピースビルダーズ
ヒロシマの新たな貢献(劣化ウラン兵器禁止のために):NO DUヒロシマプロジェクトさん [2010年05月31日(Mon)]
こんにちは、倉庫番@ピースビルダーズです。
このブログでは、現在広島で平和のために取り組んでおられる個人・団体の皆様のご紹介も行っていきます。

記念すべき第一回は、倉庫番が前々からお話を伺ってみたかった「NO DUヒロシマプロジェクト」さん。
劣化ウラン兵器(従来の兵器より強い威力を持つために多く使用されているが、人体や環境への深刻な悪影響が懸念されている。湾岸戦争で初めて大規模に使用された)が使われたイラクなどの地域で行った被害状況調査などに基づき、その問題性を訴え、大規模な禁止キャンペーンや、被害地域の方との交流などを行っていらっしゃいます。

(活動実績:6千人を集めた「人文字」、NYタイムズに意見広告掲載、出版物『劣化ウラン兵器禁止を求めるヒロシマ・アピール』は様々な人に支持されて学習会等での採用多数、2006年にはウラン兵器禁止を求める国際連合世界大会を実施、等々)

ありがたいことに、代表の嘉指信雄さんに直接インタビューをする機会をいただきました。
以下に、その様子をご紹介します。

* * *


(倉庫番)――NO DUさんの活動を拝見するにつけ、「ノーモア・ヒロシマ」「ノーモア・ヒバクシャ」という声とダイレクトに結びついていながらも、とても現在的なものであるため、その声が単に広島の地で空中に向かって叫ばれているものではなくて、世界の具体的な現実に向けられているものであることを再認識します。またその規模の大きさにも目をみはるものがあります。象徴的かつ研究成果の蓄積も豊富なこの広島の地からの取組が、これ以上の戦争による放射線被害を食い止めることに期待します。
また、当然この活動は広島に向かってなされているものではありませんが、広島に住む私たちにも、広島のこれまでの取組が、世界的に、しかも従来の核兵器廃絶への訴えとは違った角度からも意味を持つことを気付かせてくれ、今後の広島の平和活動をさらに活発にする効果も持っているという点でも、とても参考になります。
まずは、嘉指代表がこの活動を始められたきっかけを教えてください。


(嘉指)――2003年、イラク戦争反対の声に、もしも開戦されたら劣化ウラン兵器がまた使われるのではないかという懸念が重なり、機運が高まったことが一つあります。
またそれ以前の2002年12月に、写真家の豊田直巳さんらとイラクに湾岸戦争後の劣化ウラン弾被害調査に赴いていたことは決定的でした。現地に行って様子が鮮明に見えるようになりました。
その後、いよいよ戦争が本当に始まってしまうという状況になった際、広島のYさんという方から人文字のアイデアが出され、成功するかどうかわかりませんでしたが、始めることにしたわけです。


(倉庫番)――人文字プロジェクトは並大抵のことではなかったと思います。しかし、日本のデモでは珍しい、お祭りのような活気あるものだったようですね。

(嘉指)――当日の準備のために事前に人数を把握しようと、テント村を作って3、4週間登録を受け付けたのですが、それがマスコミにも取り上げてもらうことができました。人文字というわかりやすい方法や、「『ニューヨークタイムズ』に広告を出そう」と呼びかけたのが、市民の皆さんに手ごたえを感じていただく上で良かったと思います。
イラク戦争と劣化ウラン弾使用を止めようと希望を持つ人々が、遠方からも訪れてくださり、6000人に及びました。カンパによって数百万円の意見広告も出すことができました。


(倉庫番)――2006年には、やはり相当規模の大きいICBUW(ウラン兵器禁止を求める国際連合)ヒロシマ大会もありました。

(嘉指)――この時も大変多くの人々のカンパに支えられました。行動は持続させないと、やがて自分には何もできないという感覚が生まれてしまいます。持続性がキャンペーンにとって重要です。
この大会によって、様々な前進がありました。例えば、劣化ウラン弾の被害についての懐疑などもあり、10年以上もこの問題に取り組んできたダマシオ・ロペス氏も疲れてしまっていたようですが、広島に来て見たら大会は非常に大きなものだった。これに力を得て、ロペス氏はコスタリカのアリアス大統領にアピールし、コスタリカでは劣化ウラン弾を禁止する国内法の審議が始まりました。


(倉庫番)――どのような経緯でヒロシマ大会に至ったのですか。

(嘉指)――日本でこの問題に関心を持つ人やメディアの数は世界に比べて多いです。カンパの集まりも多く、国際キャンペーンを支えていました。やはりこれは問題が放射性物質と関わっていることによると思います。このような理由から、ロペス氏が広島を希望したのです。
実は、2002年にイラクから日本に医師が訪問していました。このことが日本でこの問題に注目が集まる一つのきっかけになり、それが私達のイラク訪問につながっていくのですが、この方達も、やはり問題を放射線物質の問題であると認識して訪日していたように、その分野における日本への期待度は大変高いものがあります。
やはりヒロシマ・ナガサキとイメージがつながっていて、そこでアピールすることの意義を感じていると思います。


(倉庫番)――広島はこうした形で世界に貢献していくことができるのですね。今後、私たち草の根の市民が他にできることがあるとすれば、何でしょうか。

(嘉指)――普段顔を合わせることのできる地元選出議員の方などに「劣化ウラン兵器禁止国際キャンペーンはすぐそこまで来ている」ということを伝えることは、より大きな動きにつながると思います。

(倉庫番)――今後の活動についてお聞かせください。

(嘉指)――イラクの医師を日本で育成する活動を続けていきたいと思っています。人を育てるということはとても大切です。昨年バスラで開催された「第1回国際がん会議」では、過去に日本で研修を受けた方々が中心になっていました。
また、禁止キャンペーンには必ず「被害者支援」の視点が盛り込まれるべきです。人のつながりは、被害者の声に耳を傾ける意味でも重要です。
さらに、ベルギーが劣化ウラン兵器禁止に率先して取り組んでいますが、日本政府も運動の先頭に立ってもらうよう要請を続けていきます。


(倉庫番)――ありがとうございました。話は変わりますが、NO DUさんの活動はキャンペーンや人のつながりづくりが上手で、持続可能性が高いと感じます。

(嘉指)――人々の問題意識が高いことを反映してのことだと思いますが、この問題に関して広島で声をあげていることが説得力を持っていることもあるのでしょう。
また、ジャーナリストや写真家の方の協力を得られているのも大きいですね。
このように難しい問題の場合、なかなか人々は動かないものです。イラクでも大臣が問題を知らなかったり、活動している人は孤立しがちです。やはり人とのつながりを感じていれば、やる気が出ます。ポストカードなど様々な方法を駆使してつながりをつくろうとしています。


(倉庫番)――私たちピースビルダーズの活動にとっても、大変参考になるお話でした。本日は本当にどうもありがとうございました。

(以上、広島の世界への新しい貢献について考えさせられるインタビューでした。嘉指代表、事務局の皆さん、ありがとうございました。)

* * *


笑顔NO DUさんの活動や劣化ウラン兵器の実態について詳しくはウェブサイトをご参照ください。
http://icbuw-hiroshima.org/

笑顔また、ICBUWジャパンさんがツイッターをしておられます。「つながり」は力です。ぜひフォローしましょう!
http://twitter.com/ICBUWJapan


<NO DUさんの書籍>

 
暴力に支配されない [2010年05月10日(Mon)]
住民が安全に生活できるということは、平和な社会のための基本的な条件の一つですね。
今回は、かつて広島で、戦争にもある程度関係して、暴力によって市民が安心して暮らせない状況があったのに対し、市民的な努力がその改善に貢献したという事例を紹介します。

――原爆は、広島の街の破壊とともに社会の秩序もご破算にしました。いわゆる力の空白において新興の暴力的な組織が勢力争いをはじめ、広島は一種の無法状態になりました。広島に育ったレジャー・消費産業からの資金などによって組織は成長し、従って勢力争いも大きくなります。
以下は復興も一段落した昭和30年台後半の話です。

広島には多数のピストルが集まり(旧陸軍ものに加え、金に困った兵士など駐留軍から流れるものが最も多かったとのこと)、銃を使った抗争が多発し、時に一般市民が巻き込まれるなど、住民は安心な生活を送れず、警察も多大な労力を暴力対策のために注がなくてはならないという状況がありました。
(抗争が激しい時は、爆破事件さえ起こったとのことです。また、それがなくても、カープがナイターに勝利した夜でも、いつもなら繁華街に繰り出す祝杯組が影を潜めるという状況だったそうですから、これは野球観戦を日々の活力にしている人々にはたまらない、自由に行動できない良くない状況ですね。)

警察はもちろん取締りを強化するのですが、それを逃れて組織の勢力と資金を確保するための新たな手口が生まれ、市民が被害をこうむるといったいたちごっこ。しかし市民は報復を恐れて何もできないという状態が長く続きました。

そうした状況に対し、中国新聞社が改善を目指してキャンペーンを行います(「平和都市ヒロシマ」の実態がこれでいいのか、という思いもあったようですね)。それは、機械的に事件を報じるのみでなく、表面化しない犯罪や市民の現状の受け止め方など(行政や企業の事なかれ主義的な受け入れ方を含めて)を丹念に紹介し、暴力に対抗する、あるいは見過ごさない気運を全体的に高めるというものでした。

先述のようないたちごっこは続きながらも、徐々にキャンペーンが奏功したのか市民は泣き寝入りせず警察に協力するようになり、警察のさらなる取り締まり強化とあいまって暴力地図は縮小し始めます。取り締まりがうまくいくと市民の警察への信頼感も高まり、さらに協力が進む、また、新聞への投書も増えてさらに気運が高まる、警察も報道を世論と認めて報道活動を守るようになるという良い循環が生まれました。
そして実際に、組織の資金源となる活動を公共施設で行わせないなどの市民的な方法で、目に見える効果を生んでいったのだそうです。

【参考文献】

中国新聞社報道部『ある勇気の記録―凶器の下の取材ノート―』青春出版社、1965年(のち社会思想社「現代教養文庫」)


上の参考文献の筆者の方が、「メディアが暴力を追放した」といった英雄的な書き方を自重するように、暴力に支配されない社会を守るためにはやはり警察の存在が欠かせませんが、市民と警察の間の信頼関係を育てたり、社会全体に対して問題を提起したりする上で、メディアの果たす役割は重要だと思います。
戦争などを経て社会を暴力が支配するということは色々な所であることだと思います。そこで市民がすべきことを考える上で、この広島の事例は意義があるのではないかと思います。

(倉庫番@ピースビルダーズ)
楽しむ [2010年04月30日(Fri)]
広島平和記念資料館で今行われている企画展「佐々木雄一郎写真展」(第二部「平和を誓う」)を見てきました。
佐々木雄一郎さんは、広島市に生まれた写真家で、昭和20年8月18日から30余年間、戦後の広島を撮り続けた方だそうです。
すばらしい写真の力で、被爆の惨状はもちろんのこと、このブログが主に取り上げようとする市民の皆さんの戦後の様子が鮮明にとらえられていました。

特に僕が目を引かれたのは、被爆後間もない時期からすでに大衆演劇や祭り、スポーツ大会などが行われ、市民に活気を与えていたということ。中には「エスキーテニス」なる広島発の新スポーツの写真もありました。

エスキーテニスとは、「日本エスキーテニス連盟」さんのウェブサイトによれば、昭和20年子供たちが焼け残った板切れとボールで遊んでいたのに始まり、広島の実業家の方が「スポーツを通して平和を」との願いを込め、場所をとらず安価な道具で楽しめるものとして考案した、テニス型のスポーツとのこと。
手軽に楽しめるエスキーテニスは職場や学校などで大変な人気となり、昭和23年には連盟が設立、27年には平和大通りに10面(!)のコートが設置されたんだとか[日本エスキーテニス連盟ウェブサイト]。

人はつらい現状の中で娯楽を忘れてしまうのではなく、そんな時こそ、そういう人間らしい活動が必要なのかもしれませんね。
アラブ文学者の岡真理さんが、サルトルの「アフリカで子どもが飢えているとき文学に何ができるか」という問いに対して、包囲されたサラエボでの『ゴドーを待ちながら』上演の例や、2002年イスラエル軍に包囲されたベツレヘムで本を読んで気を紛らわしていた女性の例を挙げて、文学が真に生きる糧となるのは、私たちにとっての例外的状況を日常として生きるこれらの人たちにおいてではないか、それは人間性を顧みられず殺されてしまう人たちに尊厳を回復する営みなのではないか、と書いていた[岡 2006]のを思い出しました。

テニス テニス テニス

ちなみに、佐々木雄一郎さん写真展の第一部「平和を築く」(2009年7月18日〜12月15日)も良かったです。
その時もらったパンフレットを今見返してみたら、裏表紙にこんな言葉が書いてありました。
「平和を築くために、私たちは何をすればよいのだろう。佐々木雄一郎氏の写真は、この問いに一つの答えを与えてくれる。原爆により廃墟と化した広島で、傷ついた体と心に鞭を当て、人々は復興に立ち上がった。焦土に槌を振るう姿、瓦礫の中から廃品を集める姿、傾いたバラックにバケツで水を運ぶ姿、それらはすべて、平和を築く姿ではなかっただろうか。年がどれほど美しく近代的な姿に生まれ変わろうとも、失われた命はよみがえらない。しかし、つらい記憶を胸に秘め、人々は力を合わせて平和記念都市広島の建設に取り組んだ。再び人間らしく生きるために。子どもたちの未来を拓くために。平和は、人の心の中にも築かれていたのである。」[広島平和記念資料館 2009]

とてもいい言葉だと思いました。このブログでは、平和づくりの活動をそういうものととらえて、さらにご紹介していきたいと思います。

【参考資料】
・日本エスキーテニス連盟ウェブサイト:http://www.hbs.ne.jp/home/miyo-344/(2010年4月30日アクセス)
・岡真理「思想の言葉 『戦争』の対義語としての文学」『思想』(989)、岩波書店、2006年9月、pp.1-3
・広島平和記念資料館『佐々木雄一郎写真展 第一部 平和を築く』(平成21年度第1回企画展パンフレット)、2009年


(倉庫番@ピースビルダーズ)
Posted by ピースビルダーズ at 12:56 | 戦後の復興【社会】 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
イノベーション [2010年04月22日(Thu)]
はじめまして!当ブログ「広島 “手づくり”平和活動倉庫」の倉庫番@ピースビルダーズです笑顔

ピースビルダーズではこれまでにも、広島の戦後復興を「平和構築」の事例と考えてその過程を調査・研究し(成果の一例)、その教訓を、例えば世界の紛争後地域の人々など、これから平和をつくっていく人々と共有するといった活動を行ってきました。
このブログでは、さらにそのテーマを掘り下げ、特に、平和を自らの手でつくろうとしてきた市民の皆さんの草の根レベルの取り組みを、インタビューや文献に基づいてご紹介します。
また広島では現在も、平和を求める活動が人々の手で連綿と続けられています。とても豊かな皆さんの現在の活動も、できる限りご紹介していきたいと思います(紹介記事の他に、このページの上の方にある「平和イベントカレンダー」も充実させていくつもりです)。
これらが、これからの世界の紛争後地域や日本での平和づくりの主役となる人々にとって、具体的な教訓になればいいなと思っています。
どうぞよろしくお願いします。

さて、まず第一回は、以前にピースビルダーズ研究員が書いた戦後広島の経済復興に関する論文[大川2008]を元に、このブログの趣旨にしたがって、人々が苦境の中で何をしたのか、そしてそれがとてもたくましい営みであったということを書いてみたいと思います。

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――ご存知の通り、戦前・戦中、広島は軍都でした。もちろん、広島の非軍事的な復興において、その産業的基盤と労働者の熟練が役に立っていたのは言うまでもありません。
しかし、戦争全体を通じて人的資源が消耗し、原爆によってインフラも壊滅、おまけに軍需産業の解体のため、連合軍によって生産活動が厳しく制限された時代に、そう簡単に経済が再建されるはずはなく、人々は苦境に立たされました。

一方で、人々は工場を持て余すことなく、生産を続けます。各工場とも食糧難などの当時の事情を反映して、食糧生産のための農業機械などから「手当たり次第に」生産を再開しました。中には、航空機のエンジン廃材を使って炊飯釜などを作って農家一軒一軒を売り歩いた方もいたそうです。
こうして民需をいち早く見つけて工場を存続させつつGHQ軍政部の許可が出るのをじっと待ち、本格的な生産の再開に至ったのです。

とはいえ、エネルギーや資金の不足する中での操業は当然容易ではなく、競争も厳しいものでした。
しかし、ここがすごいところだと思うのですが、こうした逆境の中でこそ、様々なイノベーションが生まれているのです。
同論文が紹介しているのは、冷凍パン生地の発明で工場から離れた店舗での焼きたてパンづくりを可能にしたアンデルセン、世界で始めて電気式蚊取り器を開発したフマキラー、ICのシリコンウエハーを切断する機械を開発したディスコ、そしてロータリーエンジンを開発して広島の機械産業を牽引してきたマツダ(元東洋工業)などなど。

東洋工業もGHQによって乗用車を含む多くの生産を禁止されましたが、制限つきながらもトラックを生産し、大型トラックなどによって競合他社との差別化を図りながら成長、また「一県一特約店方針」などの独自の販売戦略も打ち出しました。
もちろん日本はやがてモータリゼーションの時代に入り競争も激化、人気もトラックから乗用車に移りますが、東洋工業は庶民に手の届く軽自動車で人気を集め、さらに将来の自動車社会を見越して、小型で軽量、音が静かで高出力なロータリーエンジンの開発に着手するなど、激しい競争の中で独自の戦略をとり続けたのでした。

当然、政府やGHQの政策、社会的状況も影響しているとはいえ、人々は競争の中でイノベーションをいくつも生み出してきたんでしょうね。

その後もマツダは広島の経済の中心として、周りに多くの関連産業を発展させていきます。
サッカーボールやバレーボールで有名なモルテンも、50年代後半、東洋工業の自動車ゴム部品の生産を何とか試験的に受注するところから、やがて受注量・品種を増やしていったそうです。

【参考文献】
大川富美(ピースビルダーズ研究員)「広島の経済復興〜ダイヤモンド理論からみた産業クラスターの形成」 篠田英朗(編)『現代平和構築活動の視点から見た広島の戦後復興史』(IPSHU研究報告シリーズ・研究報告No.40) 広島大学平和科学研究センター、2008年、pp.64-108

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いまやマツダは広島の大企業なので、「手づくり」「草の根」といったイメージではありませんが、三輪自動車を作っていたんですね。

というわけで、ここで僕が思うのは、戦争で疲弊しても、あるものは実はある。ニーズを見つけながらそれを地道に利用して機会を待ち、同時に、ないものを補うためにイノベーションを生む。そしてそこに生まれた新しいチャンスを捉えて、社会全体で前進する、という人々の生活力が、復興の支えだったんだろうなということです。それが今の日本の平和のための教訓になるかどうかはわかりませんが、世界の紛争後国においては通じるものがあるのではないでしょうか。
もちろん、一つのイノベーションの背後にはたくさんの失敗もあったんだと思いますので、そう簡単ではないでしょうが、それでもこうしてがんばって生きている広島の姿が、これから社会を立て直していかなくちゃという人々にとって、何らかの力になればと思います。

初回なので長くなってしまいました。お読みいただきありがとうございました。
ではまた、次回をお楽しみに。

笑顔 笑顔 笑顔

(ところで、ここでは上記の論文をこのブログの目的に沿って要約してしまいましたが、原爆被害研究に比べて少ない広島の復興研究の一つだと思いますので、どうぞ全体もお読みください。同研究報告の他の論文もいつかご紹介できればと思いますが、とても面白いのでお時間があればぜひどうぞ。→PDFを開く

(倉庫番@ピースビルダーズ)
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Posted by ピースビルダーズ at 13:41 | 戦後の復興【経済】 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)