CANPAN ブログ検索
Loading
  • もっと見る
«iPS細胞研究基金について | Main | 梅雨空にこんな夕日»
<< 2021年09月 >>
      1 2 3 4
5 6 7 8 9 10 11
12 13 14 15 16 17 18
19 20 21 22 23 24 25
26 27 28 29 30    
カテゴリアーカイブ
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
京都わらび会 橋本幸郎さんからの投稿 [2021年05月19日(Wed)]
ぴかぴか(新しい)「京都わらび会」会員の橋本幸郎さんから嬉しい投稿をいただきました。
***********************
京都わらび会の橋本です。
大阪OPLLのHP(ブログ)を見ていましたら、伏見稲荷大社の記事を読みましたので
伏見稲荷大社付近の話をしたく投稿をしました。
私は、伏見稲荷大社が鎮座している稲荷山が見えるところに82年住まいし、いつも稲荷山を見て育ちました。稲荷山は比叡山から南に数えて東山36峰の一番最後の山になります。伏見稲荷大社が鎮座しているところは昔紀伊郡深草村と呼ばれていた地で、711年に創建され1300年を超えています。京都は応仁の乱で街が焼き尽くされ稲荷神社(戦前まで呼ばれていた名)も焼かれたのですが伏見稲荷大社(現在の名)は再建されました。桜門は豊臣秀吉が母の大政所殿の平癒祈願が成就し現在の桜門が建立されました。伏見稲荷大社の氏子はこの深草(ふかくさ)ではなく鴨川より西の九条と五条、七条の一部です。深草の地名は、日本書紀に書かれており奈良時代、屯倉(みやけ、ヤマト王権の支配制度のひとつ)として食料を供出していたそうです。しかしこの深草が軍隊の街と変貌し明治29年現在教育大学のところに歩兵連隊が設置され京都へ師団の誘致が成功し、深草に第16師団司令部が設置されたのに伴い、新たに各部部隊が出来、練兵場も出来、兵舎が出来ました。広大な練兵場ができ、街は軍隊一色になり街の様子が変わったと伝えられています。そして昭和20年8月15日戦争が終わり使われていた兵舎は学校に使用され、中学校・高校・大学にと名前が変わっていきました。使われた兵舎は跡形もなく、ただ一つ残っているのが第16師団司令部の建物が残っています。1度内部見学があり見学しましたがガッシリとした建物で内部はきちんと保存された豪華な造りでした。今だに昔の名称が使われています。師団街道・第一軍道・第二軍道・第三軍道と道標があります。学生の街になった深草そして伏見稲荷大社の千本鳥居が有名になり、インバウンドで多くの観光客や修学旅行生が来られ、新型コロナウイルスの感染が発生するまでは賑やかで、千本鳥居も押すな押すなの人出でした。非常事態宣言が出てからパッタリと人出も途絶え、昔の静けさに戻りました。深草には稲荷山に竹藪があります。ここに掘られる筍は、乙訓の筍(京都乙訓地方の筍)と同じぐらいの味です。この竹から深草の団扇(うちわ)が作られているのです。他にも伏見人形の窯元があり愛らしい人形が作られています。新型コロナウイルス感染が収束しましたら、是非伏見稲荷大社へ足を運んでいただきたいと思います。
       京都わらび会 橋本幸郎
DSC_2243.jpg



***********************
2月13日にアップしました私の記事を見て頂いたようです。全国の人たちから篤い信仰を集めている伏見稲荷大社。橋本さんが、これまでの人生を稲荷山と共に生きて来られ、この地に感謝し大切に愛おしく想われている気持ちがとてもよく伝わってきました。京都わらび会は、「希少難病者・児と家族の会」で、昨年には結成40周年を迎えられました。京都にお住いの骨化症の方も沢山入会されています。橋本さん、投稿を頂き本当にありがとうございました。 (TK)
Posted by いけだ at 22:53 | 投稿 | この記事のURL | コメント(0) | トラックバック(0)
トラックバック
※トラックバックの受付は終了しました

コメントする
コメント