海のジグソーピースNo. 233 <好奇心を生む海洋科学のアウトリーチについて―真鍋博士のノーベル物理学賞を受けた一考察>
[2022年01月12日(Wed)]
「西高東低の気圧配置では北風が吹く」。この一般的な冬型の天気は、実は通常の流体では考えられない現象です。西が高く、東が低いのならば、風は西から東に流れるからです。このことは、次の流体力学の基礎方程式(ナビエ–ストークス)を見ても分かります。
ここでは単純化するため粘性や外力が無い場合の式にしていますが、左辺の速度vの時間tによる変化や移流は、圧力pの勾配に依存することを示しています。すなわち、圧力の勾配(傾き)の方向に流れが出来ること、また、圧力の差が強いと速い流れが、それが弱いと流れは遅くなることを示しています(∇は勾配を示す演算子)。
では、なぜ西高東低の気圧配置のときに、流体である気体が北から南に流れるのでしょうか。それは、地球が回転しているためです。数式による説明は省略するのですが、地球上の大気や海洋といった流体は、地球の自転による回転系の流体力学の法則に従うため、等圧線と並行に流れることになります。この地衡流という法則により、他にも様々な地球上の現象を説明することができます。筆者は、これが応用物理学である気象学や海洋物理学といった地球流体力学の醍醐味のひとつと考えています。
流体力学の方程式は、数式を展開するだけでは多くの場合に解析解を得ることが出来ない非線形と呼ばれる種類のものです。そのため数値シミュレーションを使って計算を行うことが一般的となっています。地球流体力学も同様に複雑な数式となるため、通常は「紙と鉛筆」の手計算で解くことは出来ません。しかし、面白いことに、様々な仮定を置くことで手計算でも、自然現象に見られる特徴的な現象を説明することが出来ます。先に示した地衡流という圧力と流れの関係も、地球流体力学の授業の最初に数式の展開を習います。そして、より複雑な現象に、手計算で挑戦していくこともできます。昨年、ノーベル物理学賞を受賞された真鍋淑郎博士から比べると、かなり程度は低いものでしたが、筆者も、地球惑星物理学科に所属していた学生時代に、数学の得意な友人とチャレンジしたことを思い出します。偏微分方程式を展開していくことで、また、いま見ている現象のなかで必要のない要素を敢えて無視することで、手計算でも様々な地球上の現象を説明することが出来る。そういったことを感じられるのも、地球流体力学の魅力といって良いでしょう。
このような科学的な部分に加えて、地球流体力学には「現業」という役割があります。天気予報が代表的な例で、日々の精度の高い天気予報は私たちの暮らしには欠かせません。また、中長期の気候変動予測も現業と呼んで良いと考えます。先般の軽石の漂流予測のような海流予測も「現業」と言えるレベルになってきました。2021年から開始された「国連海洋科学の10年」の公認事業(Endorsed Decade Actions)のなかにも、「Digital Twins of the Ocean」というプログラムがあり、全世界の海洋をコンピュータ上で可視化する試みが行われています。また、より複雑な沿岸域についても、同じく公認事業である「Coast Predict」というプログラムが「現業」としての沿岸予報にチャレンジしていきます(詳しくは『Ocean Newsletter』第514号をご参照ください)。
「現業」では社会に役立つという大きな意義があり、その精度向上などに貢献することは科学者にとってもやりがいのある仕事です。このような「現業」での数値予測精度の向上とあいまって、科学的な発見も行われてきました。真鍋博士の業績に限らず、山形俊男博士によるインド洋のダイポールモード現象の発見など、いくつも好例を見ることができます。一方で、精度向上などの社会からの要請に応えるあまり、ともすれば科学的興味を見出しにくい分野になりやすいのも確かです。最近では、スーパー・コンピュータを活用した研究そのものが、とても大規模かつ複雑となり、一般の方に科学的な面白さを伝えることが難しくなりつつあることは否めません。
そこで、このような海洋科学を含む地球科学の特徴を踏まえて、若い世代に興味を持ってもらえるようするための一つの方策として、第一線の科学者による一般向けのアウトリーチについて、本稿の後半で紹介してみたいと思います。と言うのも、日本の科学界全般に言えることですが、この分野においても若い科学者の減少が課題となっており、科学界の高齢化の進行が顕著になっているからです。
筆者がこの分野を志した要因となった本に、野崎義行博士による『地球温暖化と海』という一般書があります。この1990年代の本では、海洋に二酸化炭素が吸収されるメカニズムを分かりやすく示すとともに、そのメカニズムだけでは、実際に海洋に吸収されているだろう推定量を説明することが出来ないという「ミッシング・シンク(不明な吸収源)」という課題を提起していました。当時、「それならば自分で課題に挑んでみよう」と思ったのを今でも覚えています。その後、大学院において真鍋博士の論文も参照にしながら、大気モデルと海洋モデルを結合した気候モデルを構築して、海洋深層循環の再現を試みました。残念ながら家庭の事情もあり修士課程後に就職したため研究そのものは中途半端で終わりましたが、現象を簡略化しながら、当時のスーパー・コンピュータのレベルでも計算できる気候モデルを構築していった修士課程の日々は楽しいものでした。
筆者は、若者向けのアウトリーチとして、野崎博士のような一般書が重要と考えます。最前線の科学者が提示する課題が、科学者の卵たちの関心をくすぐるためです。例えば、最近のそのような一般書として、磯辺篤彦博士による『海洋プラスチックごみ問題の真実』があります。海洋プラスチック問題について最新の科学的知見をもとに詳しく紹介している本ですが、実は、この本でも「ミッシング・シンク」が取り上げられています。それは、微少なプラスチックが何故か海洋中で観測されないという現象で、最新の科学でもまだ説明ができていない課題です。このような最新の科学でも分からない課題(謎)こそ、科学的興味を呼び起こすもので、昔の筆者のように「ワクワク」するような若い世代がどんどん出てくることを期待しています。
最近では一般書だけではなく、YouTubeなどのツールを通して科学者の成果や課題を知ることも出来るようになっています。海洋政策研究所でも、2017年の真鍋博士の講演会の様子を、博士の許可を得て昨年10月にYouTubeから配信しました(こちらからご覧ください)。音声と写真、講演資料から構成した動画ですが、とても生き生きと楽しそうに講演される博士の様子を音声から知ることが出来ます。
真鍋淑郎博士 特別講演会「地球温暖化と海洋」(2017年10月31日)
奇しくも、「国連海洋科学の10年」では“An Inspiring and Engaging Ocean(夢のある魅力的な海)”という7つめの社会的成果が注目されています。世界の人びとが海の理解を通じて行動することが大切だからです。コロナ禍ということもあり、最近では磯辺博士のように一般書を執筆される科学者も多くなっています。本稿を読んで、そのような本を手に取ってみたいと思って頂ければ幸いです。
海洋政策研究部主任研究員 角田 智彦