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海洋政策研究所ブログ

海洋の総合管理や海事産業の持続可能な発展のために、海洋関係事業及び海事関係事業において、相互に関連を深めながら国際性を高め、社会への貢献に資する政策等の実現を目指して各種事業を展開しています。


海のジグソーピースNo. 230 <『52ヘルツのクジラたち』を読んで> [2021年11月24日(Wed)]

 『52ヘルツのクジラ。世界で一番孤独だと言われているクジラ。その声は広大な海で確かに響いているのに、受け止める仲間はどこにもいない』…町田そのこ著『52ヘルツのクジラたち』の一節です。

 そんなはずはありません。なぜなら、大型ヒゲクジラの音声について少なくとも数百編の論文が出ており、52ヘルツはありふれた周波数とわかっています。シロナガスクジラに録音機をとりつけて記録した音声をあらためて見直してみても、確かに52ヘルツの成分を含んでいました。しかし、読まずして安易な指摘をすべきではありません。鯨類の音響学を研究してきた者として、タイトルが気になりながらも近くの書店で買い求めたのは出版後1年以上も経ってからでした。

 物語は、知られたくない過去を抱えた主人公のキナコを中心にすすみます。彼女を救い出したアンさん、ひょんなことで知り合った子供、それぞれが助けを求めて発した52ヘルツの声は誰にも届きません。たぶんかれらを虐げた人たちも、どこかで52ヘルツの声を上げていたに違いないのです。聞こえない声を聴いてくれるひとがまわりに一人でもいれば、その声に耳を澄ます時間を身近なひとたちが少しでももてたら、こんなに悲しくてつらいまま生きなくて済んだかもしれません。

 世界で一番孤独だと言われている52ヘルツで鳴くクジラは、実は観測事例に基づいています。最初に報告したのは、著名な鯨類学者のワトキンス(William Alfred Watkins)博士です。沈没したタイタニック号を発見したウッズホール海洋研究所に所属する博士が、同研究所の発行する技術レポートとして2000年に出版しました。この報告によれば、すでに知られていたシロナガスクジラやナガスクジラの音声に比べて52ヘルツは高い周波数で、類似の音は他に記録がありませんでした。後年の論文では、声の主はシロナガスクジラとナガスクジラのハイブリッドと推測されています。最近の知見を加えれば、アラスカ沖の摂餌域でよくみられる比較的高い周波数の社会性コールを発しながら、南下したクジラではないかと思われます。もしかしたら、歌を歌わない雌だったかもしれません。繁殖期の雄のクジラは歌を歌います。その声は低く、雌の誘因や同種の雄に対する誇示の機能があるといわれています。一方で、雌は繁殖期に雄の歌を聴いてその品定めを行っているとのことです。

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地球上でもっとも体重の大きな動物であるシロナガスクジラ
(アイスランド北部沖。撮影:Maria Iversen)。
追いかけるゴムボートと比較するとその巨大さがわかる。発する鳴音は極めて低い周波数であるが、摂餌海域では52Hzの成分も含む。

 他者に自分の声が届かない状況というのは単なる比喩ではなく、海中で現実に起こりつつあります。海中の人工騒音レベルが近年増えてきているためです。人工的に発せられる騒音の周波数はクジラの音声に近いためマスキング効果があり、コミュニケーションできる距離が短くなっている可能性が指摘されています。冷戦終結後の1990年代から海中の音響観測装置やデータが民間でも利用できるようになり、海の騒音問題が徐々に明らかになってきました。

 ところで、雑音が多くなり本当に必要な情報が届かなくなっているのは、なにもクジラに限ったことではありません。情報の洪水に悩まされ、日々忙しく過ごしている現代のヒトも似たようなものではないでしょうか。あまりに多くの情報に晒されていると、かえって大切なものが捉えにくくなります。高速デジタル網で世界が瞬時につながる社会では、大量の情報がやりとりされているのに届けたい気持ちが届かず孤独さが増しているようにもみえます。コロナ禍で増えたオンライン会議で相手がほんとうに伝えたいことが受け止められているのでしょうか。

 『52ヘルツのクジラたち』では、虐待、離婚、介護、ジェンダーなど、難しいテーマが次々と突きつけてきます。それでも聞こえない声を聴こうと努力する主人公たちの物語に対して、鯨類音響学者としての野暮なコメントは不要だと思います。一読者として、素直に心に響く本でした。

海洋政策研究部長 赤松 友成

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