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2017年06月14日

主要農作物種子法を廃止する法律についての雑感

 先月であったか、議会を通ったのは。主要農作物とは、稲、小麦、大豆だったかな。稲にとっては戦後何度目かの大きな曲がり角にはなると思う。これで、稲作が大打撃とか、壊滅とか、乗っ取られるとか、まあとにかく最近は煽りが多い。とりわけウェブ上には。
 たかが法律、されど法律。社会の仕組みの根幹をなすものでは、ある。だがしかし、これほど大事なことを法律だけに委ねてしまってきたのだから、それは甘んじて受け入れざるを得ないだろう。どのような運命・結末を招くにせよ。
 そもそも。
 種子は公共のものである。
 何を意味するか。
 行政、内閣、司法にゆだねるものではない、ということだ。ゆだねてまかせてブーたれるもんじゃない。公共とはそういうものだ。種子は食べることのおおもとである。市民であれ、農民であれ、労働者であれ、年金生活者であれ、無職であれ、食べることはみんなの問題なのだ。問題としてそこにタッチしないといけないし、毎日何を食べるかということの中にその意思や決定が反映していくものなのだ。
 そういう意味で、この法案の可決で日本の稲作がズタボロになるのであれば、その前に日本そのものが終わっている、としか言いようがない。
 種子の問題だけが問題ではない、食を生み出し整える人とものと制度は、みんなで、支えて、いくことだと、思う。

 参考文献をふたつあげておく。
西川芳昭,2004『作物遺伝資源の農民参加型管理ーー経済開発から人間開発へ』(農文協)
 西川氏は先の参議院農林水産委員会で参考人として意見を述べられたが、発言の冒頭に意見の趣旨をこうまとめられている。
《種子は公共のものであるということです。誰か個人のものではない、または特定の企業が所有するものではない》
と。
 この著書は氏の博士論文を基調にしたものである。「その多くが農民によって作出・継承されてきた作物遺伝資源は、持続的農業を行なっていくための最大の資産である。これを専門家だけの手にゆだねるのでなく、NPOや農民の参加を含む多様な利用・管理のあり方を提唱」。
 専門家だけの手、行政だけの手にゆだねてはならない。
 その通りであり、そのためには、専門家、行政、市民、異なる立場をつなぐ存在が必要だ。こういうと、それをコーディネータとかリーダーとかキーマンとか様々な呼称をつけたい気持はわかる。わかるのだが、そりゃ違うんだと思う。強い専門家、すぐれた行政マン、すぐれた市民、の中からその役を一時的に担う「べき」なのだ。
 専業化への道は個別においてはありだが、制度や流れとして開くべきではなかろう。劣化がはやいと推察されるから。

 閑話休題。もう1冊はこれ。
増田昭子,2013『在来作物を受け継ぐ人々ーー種子(たね)は万人のもの』(農文協)
 「第4章 作物遺伝資源管理における公的研究機関と農民の協働」を今すぐにでも読みたい。〈内戦後のルワンダにおける在来作物品種の復活〉、〈広島におけるローカルジーンバンクと農民の協働〉。ちょいとググってみたのだが、先の西川氏の著書とあわせて読み、加筆することとしよう。
 各都道府県のジーンバンクへの影響はあるのだろうか。もしあるのだとしたら、それこそ県民がささえなければならんと思う。
船越 建明「広島県における在来種種子の保存とその利用の取り組みについて」特産種苗 第14号
 
 さて、私は焼畑をきっかけに種をとるということをはじめて2年目となる。素人のなぐさみ程度のものであるが、一粒1ミリほどのアマランサスの小さな種が、小さな小さな芽をだし根をのばし、2mを越す背丈となり、多くの種、私たちにとっては稔りをもたらすことを、「時」とともに体感知覚することの意味と意義を深めつつ、強くすぐれた市民たることをめざそう。

 以上を備忘的に記す。のちほど加筆整理します。
 
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