
もう直ぐ水曜日にならんとする時間だ。
本日もエキサイティングな時間を過ごした。
一枚の私宛の茶封筒を次男が鋏で開け、読みやすい様に目の前に置かれていた。
日に何通も来る書簡を開封し読む作業はシンドイ、それが毎日だ。
この手紙の主は「おや、彼女の夫からだ」と、舐める様に読み始めた。
旧国立弘前病院の院長の五十嵐勝朗先生からの直々の依頼のお手紙だった。
「百沢の湯」を楽しく読ませていただいてます。
平成20年に弘前を離れて17年になります、、、、と。
何と、文才溢れる五十嵐先生は何冊も御本を出版なさっていらっしゃる。
今回は地元「山形市医師会たより」に毎月投稿依頼されて、
「津軽に声楽の種を蒔いた女史」即ち「長坂幸子」先生の事を投稿。
その長坂幸子先生はあと3日で百歳の99歳で令和5年に亡くなったのだが、
五十嵐先生があたかも生前の長坂幸子先生とすこタマ仲良しだったのかしら、と
想像するくらい詳しい記述だった、、、長坂先生の1人娘さんとの繋がりで、
「母の生き様」をお嬢様と会う毎に五十嵐先生ご夫妻は記憶に溜まったのだろう。
長坂幸子先生は初代牧師中野努先生の時代に私とは被る時代がある。
私は高校時代、国立音大入学希望の同級生の口から「名前」を聞いていた。
同級生は長坂幸子先生のお宅でのレッスンの他、
土日は夜汽車で東京の先生にも通い、見事合格し音大生になった。
私のキリスト教式結婚式での会費500円の披露宴で
恩師「長坂幸子」先生の目の前でピアノ弾き語り「愛の讃歌」を歌い上げた。
又、旧東北女子短期大学(現柴田学園)助教の歌姫「山ア祥子」先生も、
私の披露宴で讃美歌を歌ってくださったのだった。
で、今回、五十嵐先生は私への手紙の他に「山ア祥子」先生へ渡して欲しいと、
「津軽に声楽の種を蒔いた女史」のレジメを同封なさっていた。
写真は、山ア祥子先生に委託された手紙を届けて開封してる様子。
今、山崎先生は白内障手術前で細かい字が読みづらい、で私が読み上げた。
2人でワイはの感動で「今、此処で電話するべし」と、寒河江のご自宅に電話。
先生がまず最初に出られて山崎先生と「長坂語録」で会話も弾み、
私は彼女(奥様)と近況を述べ合った。
五十嵐夫人とはお互い20代からの途切れない友情が続いている。
弘前で「お互い1人で歩けるうちに」会おうよ、と約束して電話を切った。
長坂幸子先生の指にハマってた紫色のデカい指輪が凄く私は記憶に残ってる。
へば、長くなった土曜日は「賛美の会」後、即山ア祥子先生と我々夫婦の3人で、
初代牧師中野努先生の奥様「とき子」さんの納骨式に参列で「酒田」一泊で行く。
もしかすれば村山市の「羽根田ご夫妻」も参列と中野牧師から聞いてるが、
何たって牧師オン年91歳だからね、、そうなのって傾聴するのみ。