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西都でエキストラ大募集 [2008年05月08日(Thu)]
宮崎発映画「三十九枚の年賀状」
6月8日(土)〜9日(日)エキストラ 800名募集


 時代設定は昭和24年夏です。エキストラの皆さんの服装・履物は自前になります。女性は浴衣、白いブラウス、あればモンペ姿など。男性も浴衣、白Tシャツやランニング、開襟シャツ。茶髪や金髪な現代風のスタイルでのご出演は申し訳ありませんができません。

当日の出演者  夏未エレナ・美木良介・松本明子・東国原知事 ほかだそうです。

 以前このブログに書いたが、昭和が終わって20年しか経っていないが、昭和という時代はすごく遠くなったように思う。特に今回の撮影は戦時下の昭和24年。エキストラの服装や髪の色をとっても現代とは全然違う事に今更ながら驚かされるが、良い映画は地元の応援がなければ難しい。
 記念品もあるそうなので、是非是非ご参加下さい。

 あらすじを転載します。

四十枚目の年賀状は届かなかった。

 体力には人一倍自信があり、 山が大好きで誰にも負けない健脚だったと言う友の訃報を知ったのは、 昭和六十年の秋であった。

 今年もやがて終戦の日が巡ってくる。 半世紀を経て風化していく人々の戦争の記憶。 でも私には、 あの日の思いが今も鮮やかに蘇えってくるのです。

 昭和二十年八月十二日、 つまり太平洋戦争終結の三日前のこと。 通りに面したわが家の前を、 重々しい軍靴の音を響かせて、 部隊の移動はひっきりなしに続いていた。何処からどこに行かれるのか、 勿論私たちは知る由もなかった。 その頃は本土決戦にそなえ、 山間の小さな村々まで軍隊が駐屯していた。

 トントン。 夜更けに戸を叩く音がした。

「行軍の途中です。 お湯を少し下さい。 戦友が倒れまして…」 灯火管制のほの暗い光に照らされた長身の若い兵隊さんは、 重装備の肩に掛けていた水筒を差し出された。

 父母の背中越しの対面。 思えばそれが忘れ得ぬ友との出会いであった。

 驚いた父母は三人を家の中に案内した。 ぐったりとしている人達を横に寝かせると、 母は早速兵隊さんの飯はんごうに残っていた固い高粱こうりゃんめしの代わりに、とっておきの配給米を全部はたいて柔らかい御飯を炊いた。

 当時は食糧事情も悪く、 配給の米も腹を満たすには程遠かった。 千切り大根や、 から芋等を切り込んで量をふやして食べた。 そんな物の無い時代だったから、その夜兵隊さんの椀に母が盛った白い御飯が、 まぶしかったのを覚えている。

 食事中にも警戒警報のサイレンは鳴った。

 私は何かを手渡したくなり、 悲愴な気持で毛糸の人形を作った。 当時の少女達は、 毛糸をくくって作る五センチほどの素朴な人形を、戦場に向かう青年達に贈った。 安全の祈りを込めたその人形は特攻人形と呼ばれていたけれど、 思えば悲しい名前である。

 休息の甲斐あって、 動けなくなっておられた一人も元気を取り戻された。 夜明けとともに三人は感謝の言葉を残して出発された。重たい背嚢にはそれぞれ人形がゆれていた。 村はずれ迄、 後ろを振り返りふりかえり、 山鼻に消えても、 もう一度あと戻りして、手を高く振られた長身の姿が目に焼きついた。

 所も知らず名も知らず、 ただその凛々しい面影が十五才の心をふっとよぎる事はあったが、 敗戦の混乱のなかで忘れるともなく忘れていた。

 半年が過ぎたろうか。

 はるばると岐阜県から分厚い封書が届いた。 憶えのない差出人の名前に、 もしやと思って封を切った。 あの時の兵隊さんだった。肩にしていた防空頭巾に、 大きく書いてあった私の名前を記憶しておられたらしい。 親切が忘れられないとの丁重な礼が、 端麗な字で書かれてあった。すぐに返事を書いた。

 振り返ると、 昭和史のなかで最も大きな混乱の時期を乗り越えて、 働き、 結婚し、 三人の子どもを育て、 私なりに精一杯の日々を送って来た。その間も、 年賀状と近況を知らせあう便りは絶えることはなかった。 私はすがすがしい友情の絆を感じた。

 時々岐阜の産物や、 家族の写真が送られてきた。 私の送った南国の果実等は大変喜ばれた。 御礼の便りにはいつも、 年令を重ねてゆく私の母への思いやりがにじんでいた。

 戦のさなかの束の間の出会いは、 人の心の温かさを深く教えてくれたように思う。

 その母が病に倒れ、 県立病院に入院した時、 友は見舞いに遠路足を運んでくださった。 二十六年ぶりの再会だった。

  遠き日の面影残し訪れし
    人のこゝろは永遠(とわ)に忘れじ

  名残り尽きずなごりつきずと母の手を
    握りし人の目のうるみかな

 大川にかかる橋まで見送った私に 「また来ます。 お母さんをうんと大事にしてあげてください。」 振り返って手をあげる仕草が遠い日の姿に重なった。

  また三たびまみゆる事はあらざらむ
    橋のたもとの短き握手

 翌年の三月、 母は逝った。

 友ももういない。

 かえりみれば、 私達の友情は時代の大きなうねりに翻弄された青年と多感な少女との心をつなぐ長い一筋の絆で支えられていた。

 山を愛した友らしい雪山の写真から始まる三十九枚の年賀状と、 折りにふれては舞い込んだ便りの数々は、 今も私の心に暖かな余韻を残してくれている

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