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2020年05月26日

変わる歴史

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過去の歴史は変わらないと思いきや、随分と教科書の内容も変わってきている。
まず、鎌倉幕府の成立は、源頼朝が征夷大将軍に任じられた1192年(いいくにつくろう)と習ったのだが、以下のような諸説あり、最近では、壇ノ浦に平氏を滅ぼした1185年とされている。

@ 頼朝が鎌倉に入り、侍所を設置し東国支配権を樹立した治承4年(1180年)
A 頼朝が事実上の東国の支配権を承認された寿永2年の宣旨が下された寿永2年(1183年) (木曽義仲が入京後、官位を得たのに対し、無役だった頼朝の政治生命がかけて後白河法皇と交渉し官位復活と国の地方機関、国衙の指揮権が頼朝に与えられた。)
B 公文所及び問注所を鎌倉に開設した元暦元年(1184年)、後に政所と呼ばれる。
C 守護・地頭の任命を許可する文治の勅許が後白河法皇により下された文治元年(1185年)
D 日本国総守護地頭に任命された建久元年(1190年)
E 頼朝が征夷大将軍に任命された建久3年(1192年)

2022年のNHK大河ドラマは、鎌倉殿の13人。鎌倉幕府と呼ばれるようになったのは、江戸時代とされており、鎌倉時代には、鎌倉殿と呼ばれていた。
因みに、源実朝が暗殺されて、以後、6年間は北条政子が鎌倉殿だったと鎌倉幕府の公式記録「吾妻鏡」に記されているそうだ。
鎌倉時代、大倉幕府、宇都宮辻子幕府、若宮大路幕府と場所を移していった。

1180年  治承4年 (安徳天皇即位、石橋山の戦い、富士川の戦い)
1181年  平家方、養󠄁和、源氏方 治承5年(平清盛死去)
1182年  平家方、養和2年、寿永元年、源氏方 治承6年
1183年  平家方、寿永2年、源氏方 治承7年(倶利伽羅峠の戦い、源義仲入京、後鳥羽天皇即位)
1184年  平家方 寿永3年、源氏方 治承8年(源義仲敗死、一ノ谷の戦い)
1185年  平家方 寿永4年 源氏方 元暦2年、文治元年(屋島の戦い、壇ノ浦の戦い)
1186年  文治2年
1189年  文治5年 源義経死去、奥州藤原氏滅亡
1190年  文治6年、建久元年
1192年  建久3年 源頼朝征夷大将軍就任
1199年  建久10年 頼朝死去

平安末期に麦を裏作する二毛作がはじまり、鎌倉時代に西日本から、室町時代の関東へと広がっていき、また刈取った草葉などを地中に敷き込み腐らせて肥料や草木灰の肥料など肥料化が進んだ。さらに、米、麦以外の栗、干し柿などの果実や山菜など多様な特産品化がすすみはじめた。

貴族社会から武士の時代に変わったのは、食料を作る農地を命がけで守る武士団の登場から、その武士団を統率し、土地争いなどを公平にさばく役割としての武士政権の必要性からだった。
鎌倉時代には、武士の娘が農地を継承した例もあり、女性の権利意見も認められていたという。
頼朝の妻であった北条政子の権利や権威意向も重視されていたのも理解できるのである。

室町時代になると食料以外の物資の流通やそれを販売される楽市楽座も広がり、ますます人の移動が促進された。今も昔も食料の増産が時代を大きく変えるきっかけとなる。
古都鎌倉は、新しき文化も生まれる。鎌倉五山第一位の建長寺には、虫を供養する虫塚が養老孟司氏の手で建立された。
posted by オーライ!ニッポン会議 at 13:54| 犬も歩けば棒に当たる