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2019年02月21日

2001年に我が国のテレワークの調査を実施したことがあります。三鷹市の産業づくり

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2001年に我が国のテレワークの調査を実施したことがあります。
今から約20年も前の話ですが、その当時テレワークの代表的な地域は、北九州市小倉(北九州テレワークセンター:都市型)、東京都三鷹市(SOHO・CITYみたか:都市型)、熊本県阿蘇町(阿蘇テレワークセンター:農村型)、山形県白鷹町(白鷹テレワークセンター:農村型)、岐阜県谷汲村(谷汲テレワークセンター農村型)、福島県いわき市(いわきテレワークセンター:ベンチャー企業型)でした。
企業誘致を主体に新たな産業を作ろうとしているセンターと、遠く離れた場所でも仕事ができる情報通信技術の進歩を期待して、仕事を農山漁村に持ってくるセンター、さらに優秀な情報編集者、デザイナー等の移住環境としてのテレワーク・SOHOなど。従来の製造業の工場を誘致する形とは異なる可能性を感じていました。
高速通信回線の整備などの環境整備と航空機を活用した大都市との利便性を活かして、これまでも徳島県、沖縄県、和歌山県などサテライトオフィス、SOHO事業者が多いと言われていました。
大手企業のテレワークは、通勤時間や営業後の報告のための移動時間を短縮化させようとする仕事の効率化させたいという考えも窺えましたが、働く方は、意外と本社から離れるのは情報が取れない、自宅で仕事するというのはプライベートとの時間の境目がなくなる。などこれまでと異なる働き方に抵抗感もあったように思いました。
それから約20年、今や働き方改革など、仕事と生活のバランス、ワークライフバランスなどからも適度に都会で適度に田舎の環境を望む人も、自然がたっぷりあるなかでの子育てなど生活そのものに重点をおいた人々が徐々に増加していることもテレワーク、サテライトオフィスに好感度を持っているのではないでしょうか。
20年前の調査で三鷹市を訪問した時、なぜ三鷹市がテレワークを推進するのか不思議な気持ちを持ちました。三鷹市にお住いの方はご存知でしょうが、その経緯は先見の明があります。当時の報告書から引用します。
三鷹市は、全国的にまちづくりの先進事例として注目されることが多く。職員同士や市民を交えた勉強会も活発である。
 ある研究会で、三鷹市の人口や税収実態を調査したところ、意外なことが分かったという。その当時の三鷹市の人口の7割は固定化しており、人口の移動がほとんどおきていない。
歳入構造を見ても、市税収入が全体の6割を占めるうち、半分が個人市民税、4割が固定資産税や都市計画税となっていることから、まさにサラリーマン世帯を中心とした住宅都市である。
しかし、少子高齢化社会の中、固定化した市民の高齢化が進むと、現在は税を納めてくれるサラリーマン世帯が減少し、将来税収が減る恐れがある。
 そこで市としては、市民税中心の歳入構造を転換し、法人税収入を増やしていくことが必要ではないかとの問題意識を持つようになり検討した結果、第1次産業は今以上に伸ばす余地がなく、第3次産業は吉祥寺を抱える隣の武蔵野市にはかなわないことから、第2次産業の発展を目指すべきとの結論を得た。
 その後、調査研究を進めるに連れて、市内には従来から立地している製造業の他にも、マンションの1室を使った、システムハウスやアニメーション製作などニュービジネス関連の企業も多く立地していることがわかった。これは、三鷹が交通の便が良い割に家賃が安く、人材も豊富なことに起因するものと思われ、これをさらに集積させることが重要ということになった。
 この結果をもとに、構想を具体化したのが「SOHO CITYみたか」構想である。この構想は(財)三鷹まちづくり公社の組織だった「三鷹市まちづくり研究所」の情報都市づくり研究プロジェクトから提言された。
この提言は「三鷹市地域情報化計画」の策定に向けて行われたもので、その中で「SOHO」を「個人もしくは小人数で、小さな事務所または自宅をオフィスとして、インターネットを活用して営業している人々、およびそれに向けて起業化しようとする人々」と定義し、この誘致、起業、振興を図ることが提言された。
「三鷹市まちづくり研究所」は、三鷹市が1988年2月に地元にある国際基督教大学と共同で設置した「三鷹市まちづくり研究会」がその前身で、1995年から任意法人であった三鷹市まちづくり公社に移管され、名称も「三鷹市まちづくり研究所」と改められた。1996年に公社は財団法人化されたが、2000年に公社は解散、その事業は現在(株)まちづくり三鷹に引き継がれている。1998年からは「SOHOパイロットオフィス」事業を実験的にスタートさせるなど、情報都市づくりに取り組んできた。
その結果、さまざまな事業を展開する起業が進む、三鷹は住む場所だけでなく、働く場所でもあるというコミュンティビジネスの根を下ろすことになっていることです。
三鷹市の取り組みの素晴らしさは、長い先を見た三鷹の姿を見通し、三鷹の将来の産業をつくろうと粘り強く続けてきたことです。
江戸時代も各藩が競って藩の産業起こしを進め、その結果特産品ができました。昭和時代には、各市町村で一つ特産品を作ろうと一村一品運動を広めたのが当時の大分県知事平松氏です。
産業づくりは、いつの時代でも大事ですね。国や県などが何かしてくれるのを待つのではなく、自分たちの地域にあったことを少しづつ長く続ける重要性を歴史は教えてくれます。
posted by オーライ!ニッポン会議 at 20:04| 犬も歩けば棒に当たる