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2019年01月30日

人が生きていくなかに物語がある。

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遠野と言えば、柳田国男の遠野物語を思い浮かべる。
今や民俗学の祖である柳田国男を語ることも少なくなったが、遠野を訪問して、なぜ柳田国男が遠野に関心を寄せたのか、その一端に触れることができた感じがした。
岩手県遠野地方は寒冷地なために、麦・ヒエ・アワなどの雑穀を中心とした農業であった。しかし、年貢割り当ては畑作物も米に換算してのとりたてであり、村単位年貢を定め、さらに村役人が家ごとに割り当てた。その割合は、一般に「五公五民」と言われ、収穫高の約5割であった。当時の遠野市の綾織村の例では、村全体の年貢の平均は、たしかに約5割(47.7%)であったが、水田は収穫高の6割2分(62%)が年貢として取りたてられていた。
南部藩の凶作・水害年表によると、1615年から1870年の255年の間に、大飢饉・飢饉が11回、凶作が39回、不作が28回、水害が5回と3年に1回の割合で凶作・水害が発生し大変厳しい農業環境に置かれていたことがわかる。遠野物語には、突然、森で消えた人などが出てくるが、これほどの凶作や水害などの自然脅威が多いと、顔見知りの人が、どこかに逃げたり、亡くなった人も少なくないである。
現代の遠野農業は、稲作を中心に、肉用牛・乳用牛などの畜産や、たばこ・ホップなどの工芸作物、ほうれんそう、だいこんなどの野菜栽培と果樹のりんご、花木は、トルコギキョウを主力品種として、りんどうを生産し、畜産は、肉用牛、乳用牛あわせて6,768頭(平成22年)、農業生産額の中で47%を占め、米ともに農業生産の中心となっている。
遠野ふるさと村の中にある南部曲がり家。庄屋として利用されていたこの家は、曲り家の集落の中では一番大きな曲り家。中には式台と呼ばれるお城や代官所などがあり、自分より身分の高い人が来たとき挨拶用件を受ける部屋がある庄屋としての格式の高い家。綾織町旧鈴木誉子家 江戸末期築 126.2坪〔416.38u〕
遠野では、曲がりやのなかで馬を飼い共に生活をしていた。それが曲がり家である。
遠野物語は馬が重要なモチーフになっている。
馬は南部藩の専売品として、農家は、藩から馬を借りて養い、農作業をしたり、物を運搬したり、肥料をつくったりした。子馬はセリ売りして、その代金を藩に納め、手もとにいくらかの収入を得ていた。地主から馬や牛を借りて養うという馬小作や牛小作もさかんにおこなわれ、優れた馬は、藩が買い上げて他藩へ売ることによって、藩の収入とした。また、三陸沿岸地方の海産物も南部藩の専売品であり、乾燥した魚介類は、品質もよく他地域で高く取り引きされ、藩の大切な収入源であったので、これを運ぶ駄賃も農民の所得になっていた。
農家は、子馬が生まれるとめす馬はそのまま飼育を許されたが、おす馬は2歳になると藩にとりあげられ、セリにかけられ、売上金の2割が与えられた。そのため、めす馬が生まれると大喜びし祝ったが、おす馬は手離さなければならず悲しんだという。
沿岸部との交流は、馬には必要不可欠な塩の入手にも関係してくる。馬を養う為には人の約十倍もの塩の摂取が必要といわれており、馬山地と沿岸部を結び道は、全国にも塩街道と呼ばれている。
米、塩、木材、馬、人が生きていくために、必死に自然と向き合い、生業をつくり暮らしていく、その苦しさや辛さの事実を不思議さやユーモアを交えた物語として伝えてきたのが遠野物語ではないか感じる。

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遠野ふるさと村の中にある南部曲がり家の中にいる「雪号」
遠野物語でも白馬は早池峰山に住む女神の使いとされている。
遠野ふるさと村
http://www.tono-furusato.jp/
柳田国男は、東京帝国大学法科大学に入学し農政学を学び卒業後に農商務省に就職し、農務局農政課に配属されて、農政官僚としての農村を歩いている。その後、民俗学を志したきっかけは、《飢饉といへば、私自身もその惨事にあつた経験がある。その経験が、私を民俗学の研究に導いた一つの理由ともいへるのであつて、飢饉を絶滅しなければならないといふ気持が、私をこの学問にかり立て、かつ農商務省に入る動機にもなつたのであつた。》
posted by オーライ!ニッポン会議 at 13:27| 日本のふるさと