2月18日(木曜日)

<上空から見る川や池の氷は凍っていた>
羽田から北京へ。今回は笹川会長と、笹川日中基金室主任研究員で、通訳兼務での同行を願いした胡一平さんと私の3人だけで、一泊二日の短い出張。
主たる目的は、中国身体障害者連合会の張会長と笹川会長の初めての面談への陪席。
天気予報によると、今日の北京地方の気温は、最高4度、最低マイナス3度。着陸直前に上空から見る北京空港周辺の川や池の氷は凍ったままだった。
空港ターミナルは、結構、混雑していた。春節の休暇の余波だろうか。旧正月の元旦(8日)から一週間を過ぎたので、春節休暇はもう終わったものとばかり思っていたのだが、ターミナルの真正面にはめでたい真紅の飾りがまだ飾ってあった。迎えの車で空港を出て、市内に入る。北京はスモッグを覚悟していたのだが、案に相違して、快晴だった。

<北京飛行場ターミナルには春節の赤い飾り>
ホテルにチェックインして10分。休む間もなく、中国身体障害者連合会へ向かった。中国語では障害者のことを「残疾人」というので、中国語表記では中国残疾人聯合会、略して「残聯」。
残聯は、1988年の設立。初代の会長はケ小平の息子のケ僕方。彼は、文化大革命の時に負傷、下半身麻痺になり、その後は車椅子生活を余儀なくされた人物である。障害者福祉行政の担当は、政府機関では衛生部と民生部の管轄だが、実質的には中国残疾人聯合会が担っていると言っても過言ではない。
モダンなビルに入り、エレベーターで二階に上がると、車椅子に乗った女性が我々を迎えてくれた。会長の張海迪さんだった。張さんを囲むように副理事長以下10人近い幹部が勢ぞろいしていたが障害者は張会長のみ。

<中国障害者連合会で会議が始まった>
張さんはお若く見えるが、1955年生まれというので、既に60歳を超えている。2008年にケ僕方を継いで、2代目の会長に就任したという。政治協商会議の常務委員。
張さんは幼少時に血管腫を患い肢体障害者になった。英語、日本語、ドイツ語を独学でマスター。28歳で文学活動を始め、海外文学を多数翻訳。2002年に発表した長編小説がベストセラーに。そのため、今も、全国作家協会の委員の肩書きも持つという大変な才女である。
日本語を交えながら長時間、語ってくれた。
中国の障害者は8500万人。80年代以前は大変厳しい状況に置かれていたが、2008年の北京パラリンピックなどを経て、近年、政府の障害者支援政策が強化され、大きく改善してきているという。昨年には、大学入試面でも特別の配慮が制度化された由。

<中国障害者連合会会長の張さんと笹川会長>
さらに、中国政府は、国連障害者権利憲章、2030年に向けての国際目標であるSDGなど、国際的な場での各国との連携にも努力を払ってきている、と力説。
当方からは、中国障害者連合会の設立時におけるこれまで日本財団が国連などの場で進めてきた障害者支援分野での活動について紹介した。また、2020年に向けての障害者国際芸術祭などの分野でのUNESCOとの活動計画など、今後の予定についても説明して、各分野での連携を提案した。
これに対し、張会長からは、日本財団が行ってきた活動を高く評価するとともに、今後は、連携していくことで合意。彼女は、リハビリテーションインターナショナル(RI)の次期会長に選出されている。
RIは日本財団と共催で、防災と障害に関する国際会議を、4月に東京で開催する。その会場は、日本財団ビル。2ヶ月後の東京での再会を約して別れた。

<知識人の私的談話サロン、共識堂で>
その後、北京の郊外に向かった。知識人の私的談話サロン共識堂へ。着いてみると、由緒ありげな大きな門扉の前で、代表の周さんご夫妻が出迎えてくれた。畑や池に囲まれた田舎の一軒屋という佇まいである。
大きな室内に案内され、地下の談話室に案内されると、そこには、北京大学や、人民大学の教授、テレビのプロデューサーなど総勢十人ほどの人たちが集まっていた。周さんによると、ここには年間3000人もの、内外の様々な分野の人々が、集まり自由に意見交換するのだという。
小一時間ほど、お茶を飲み、梨やミカンなどの果物や、ひまわりやスイカの種などをつまみながら懇談の後、場所を大きな円卓テーブルの間に移し、夕食会になった。驚くべきことに、様々な料理に使われている食材は、野菜は勿論のこと、鴨やスッポンに至るまで、彼の邸宅の敷地内の農園での採れたものばかり、だと言うではないか。驚かされることの多い夕べであった。
09時25分 羽田発
12時35分 北京着
09時 ホテル出発
15時中国身体障害者連合会訪問
17時 共識堂訪問
19時 夕食会