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犬山城 (01/18)
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スワル行きは断念し、ライッサ・ローレルさんを見舞う [2010年10月18日(Mon)]
10月18日(月曜日)

                   <ライッサ・ローレルさんを見舞う>

昨夜、5年ぶりの規模と言われていた台風「ジュアン」(国際的にはMegi)の規模は一夜明けると一層拡大し、1990年以来の超大型に格上げされていた。マニラの北方200キロにあるスワル市は丁度この台風の通過コース。スワル行きは断念し、カーソンさんとライッサさんの病院行きの相談。午後にはマニラ首都圏も台風の影響で大雨になることが予想されており、お見舞いは出来るだけ早めに済ませたいところだが、主治医のブンドック博士は午前中、別の手術の予定というので午後2時のお見舞いに決定。
その間、グーグルでライッサ・ローレルさんの名前を検索してみると何と100万件以上のページをヒット。それらの情報によって彼女の気丈振りが分かってきた。
それによると、彼女は、娘が不具者になったと涙に暮れる両親を慰めつつ、「私の子供のときからの夢は、この国を良くするために弁護士になること。そのために今までずっと頑張って来た。これくらいのことで諦めません。今は、一日も早く学校に戻りたい」と述べたという。
彼女はまた、「私は、少し運が悪かっただけ。むしろ、神様に第二の人生を与えられたことを感謝したい。私は、犯人を憎んではいない、許そうと思う」と述べてカトリック教徒が大半を占めるフィリピン人を感動させた。
こうして大勢の人々が、彼女の手術のための献血に駆けつけただけでなく。病床にはマニラ市長も上院議員も、最高裁長官から果ては、大統領までが駆けつける騒ぎになった。どうやら、彼女は今やフィリピンで一番有名な女子学生になってしまっているようだ。


                  <お見舞いの様子を伝える翌日の地元紙>

病院にライッサさんをお見舞いする前に、病院近くのレストランでカーソンさんやブンドック博士らと食事しながら詳しい話を聞いた。
それによると、先日、お見舞いに訪れたマニラ市長は、彼女に車椅子をプレゼントすると約束したという。しかし、車椅子では行動は大きく制約される。
一方、我々が今、マニラで計画中の義足学校卒業生が作るような高レベルの義足なら、仮令、両足が義足でも、練習さえすれば杖なしで歩けるようになる。それどころか、走ることさえ出来るようになるだろう。しかも、他人が義足に気づくこともないだろう。
義足の専門家であるカーソンさんは、先日、ライッサさんと面会、彼女の傷を診断したところ、技術的には完全に義足で対応できることが確認出来たという。今度のマニラでの義肢装具士学校のスタッフにも手伝ってもらえば、学校事業の初年度予算の予備費の範囲内で、ライッサさんのための義足を作ることが出来る。義肢装具士学校の良い宣伝にもなるだろう。
たまたま、来年の4月が彼女の24歳の誕生日であるので、それまでに義足を完成させれば良い誕生日プレゼントになる。そこで、笹川会長からライッサさんに対し、彼女の誕生日プレゼントとして日本財団が彼女の義足作りを支援することを表明してもらうことになった。


                     <テレビのインタビューを受ける>

ライッサさんをお見舞いした会長が、彼女の誕生日に義足をプレゼントすると約束し、その時には自由に歩けるどころか、走れるようにさえなるだろうと説明したところ彼女は目を輝かして喜んだ。私も、半信半疑の様子のご両親に、この分野での日本財団の活動と、私自身のこれまでの見聞を話し、安心するよう説明を試みた。喜んだ、両親は、明日の義肢装具士学校の調印式に来てくれることになった。
その後も、笹川会長は病院内で、地元新聞3社とテレビ局2社のインタビューを順に受けたので、結局フィリピン総合病院を後にしたのは5時。
この後は、日本大使主催の夕食会なのだが、日本から到着した元環境庁長官の広中和歌子さんをお迎えしないといけない。広中さんは、明日卒業式を迎える国連平和大学アジア分校の国際諮問委員のお一人である。そこで、急いでホテルに戻ろうとするが夕方のラッシュに巻き込まれてしまう。
雨も降り出し道路は一層混雑、約束の時間に送れること15分、やっとの思いで大使館に着く。食事前に美しい庭園を眺めながら話をしていると雨脚が強まってきた。漸く台風の影響がマニラにも及んで来たようだ。スワル市の方は大丈夫だっただろうか。


              <ライッサさんへのプレゼントを伝えるテレビ>

11時半 ホテル出発
12時 PGH整形外科訪問
12時 昼食
14時15分 PGH訪問
14時半 ライッサさんお見舞い
15時 地元紙インタビュー
16時 地元テレビインタビュー
19時15分 駐マニラ日本大使主催夕食会
大型台風が近づくマニラへ移動 [2010年10月17日(Sun)]
10月17日(日曜日)
ハノイからマニラに向かうには、一旦、香港に向かい、そこでマニラ行きの便に乗り継がざるを得ない。結局、朝の8時にハノイを出て、マニラのホテルにチェックインしたのは、夜の8時。丁度丸半日かけての移動となった。
マニラのニノイ・アキノ空港には、雨の中を、カーソンさんが来てくれていた。彼は英国のNGOであるCambodia Trustの常務理事である。彼とは元々ホテルで、来春に開設する予定の義肢装具士学校の件で打合せをすることになっていた。しかし、時間がもったいないのでホテルに向かう車の中で話をしようと来てくれたのだ。
彼が開口一番に私に尋ねたのは明後日の調印式ではなく、我々の明日の予定だった。今夜、日本財団の笹川会長らがマニラに到着し、我々は明日、マニラの北200キロのところにあるスワル市に行くことになっている。現地で実施中のシニアボランティア事業を視察し、同時に州知事や市長らと会う予定である。
ところが、カーソンさんによると、フィリピンには大型台風「Megi」が接近中で、明日にもルソン島北部への上陸が予想されている、という。私も、日本を出発する前に天気予報で大型台風がフィリピンの東の海上にあり接近中とは聞いていたが、大したことはなかろうと高を括っていた。
しかし、彼は、台風のコースはまさにスワル市のある辺りであり、きっとスワル行きは無理だから、代わりのプランを提案したいと言う。


                        <嵐の前のマニラの空>

彼が話してくれたのは、極めて感動的な話だった。
それは、丁度3週間前の日曜日、23歳の法科大学院生ライッサ・ローレルさんを襲った悲劇に始まる物語であった。9月26日の午後、司法試験の会場となったフィリピンの名門デラサール大学で手製の爆弾が爆発、幸い死者は出なかったものの、40人以上が負傷した。負傷者の多くは女子学生だった。その内で最も深刻な被害を受けたのがライッサさん。彼女は不運なことに両足を膝下から失うことになった。
フィリピン中がこの悲惨な事故に衝撃を受けたが、それ以上に彼女の発言が注目を集めた。彼女のけなげな姿勢に同情と共感する声が殺到、勇気をもらったとフィリピン中が涙した。
カーソンさんによると、このライッサさんが担ぎこまれたのはフィリピン最大の国立総合病院(PGH)、そして主治医が我々の義肢装具士事業のフィリピン側責任者のブンドック医師だという。ブンドック博士が、我々が準備中の義肢装具士学校のことを話したところ、不思議なことに、ライッサさんの自宅はこの学校設立予定地の目と鼻の先。彼女は、目を輝かせ、これも神様の啓示、何か自分に手伝えることがあれば何でもしたいというので、来年6月の開校式には来賓として来て貰いたいとお願いしたところ、出席を約束してくれたと言う。ついては、明日、笹川会長に彼女を見舞いに病院に行ってもらえないだろうか、というのだ。
成田から到着した笹川会長に相談。台風の予想からは恐らく明日のスワル行きは中止となる公算が大なので、ライッサさんのお見舞いに行くことになった。


                <大型台風の接近を伝えるCNNニュース>

8時 ホテル出発
11時05分 ハノイ発
13時55分 香港着
16時35分 香港発
18時40分 マニラ着
20時 Cambodia Trust常務理事 カーソンさん
ハノイ経由のマニラ行き [2010年10月16日(Sat)]
10月16日(土曜日)
今回は笹川会長と一緒のフィリッピン出張。来年開設予定のフィリピン義肢装具士学校の設立調印と、国連平和大学の3回目の卒業式が行われるのに併せて、マニラの北200キロのところにあるスワル市に日本財団のシニアボランティア派遣事業NISVAの現場視察を行うこととした。また、大統領に就任したばかりのアキノ大統領にも表敬訪問の予定である。

                  <ハノイ遷都1000年祭の看板(1)>

ただ、私だけは一日早く日本を出てハノイへ。2週間前に行ったばかりの、ハノイに再び立ち寄ることにしたのは、10日後に迫ったASEANオーケストラの準備のため。と言っても、コンサートのメンバーの受け入れやプログラムの作成や印刷などの準備は、ホーチミン音楽院のフオン院長や指揮者の福村さんのマネージャーの齊藤さんがしっかりやってくれているのでや出る幕はない。私の仕事は先日、シンガポールで協議した演奏の合間に上映する予定のビデオの件。それをプレゼンテーションする司会者やそのために機材らの手配を、英語のせりふのベトナム語への翻訳を含めて依頼することになっているベトナムPEPSICOのナムさんに会って、段取りを相談すること。

                   <ハノイ遷都1000年祭の看板(2)>

ハノイに着き、ホテルの部屋に入り、ビデオ作りの進捗状況を確認すると、シンガポールから早くもドラフトが届いていたので内容をチェック。コメントを送り返す。更に、ビデオをナムさんのメールアドレスに転送しようとしても、データ量が大き過ぎるためかうまく送れない。そこで、持参した新品のUSBメモリーに取り込み、彼に渡すことに。
ナムさんは、週末にも拘らず、雨の中を私の滞在するホテルにまでやって来てくれた。先ず、ベトナムで行う予定であったビデオ作りを急遽シンガポールで行うことにした理由を説明、事後了承をもらう。
そして、シンガポールでの準備状況と、今後の段取りに付き説明。残された時間が絶対的に不足している上、二つの国の間で映像やシナリオをやり取りしないといけないので、手順を細かく取り決めておく必要がある。
ナムさんとの協議を終えて、部屋に戻りその結果をメールであちこちに連絡していたら、深夜になっていた。慌しい一日が終わった。


                   <ハノイ遷都1000年祭の看板(3)>

11時00分 成田発
14時30分 ハノイ着
18時半 Pepsicoナムさん
昨日は10が3つ並ぶめでたい日 [2010年10月11日(Mon)]
10月11日(月曜日)
朝、明け方、まだ暗いうちに飛行場へ。乗り込んだ飛行機には何故か見慣れたスチュワーデスの顔。何と行きとそっくり同じクルーだった。彼女たちも、中、2泊での復路勤務ということ。「それにしても忙しい出張ですね」と呆れられてしまう始末。
機内で開いたシンガポールの英字紙、「ストレートタイムズ」によれば、昨日は10月10日、しかも、2010年ということで10が3つ並ぶ日。100年に一回のぞろ目の日ということで、街中でイベントが多数行われたのだとか。この日を結婚式に選んだ人も多かったようで、ある地区ではこの日の婚姻登録は、いつもの10倍だったとあった。 
ベトナム政府が首都ハノイの遷都1000年祭をこの日に決めたのもこのためであるに違いない。昨日のハノイの街はさぞかし賑やかなお祭りムードであったろう。1000年祭を終えて、今頃は、月末のASEANサミットに向けた準備がほんかくかしつつあるはず。我々のコンサートも無事終わってほしいと願わずにはいられなかった。

                       
           <10月10日もシンガポールは暑かった 噴水ではしゃぐ子供たち>


6時 ホテル出発
8時15 シンガポール発
16時20分 成田着
空振りの出張 肉まんでひとり夕食 [2010年10月10日(Sun)]
10月10日(日曜日)

                 <シンガポールでは日本食は当たり前@>

朝10時、ジャカルタのASEAN事務局から今回の作業のために自宅のあるシンガポールに戻ってきてくれたラジャさんとホテルのロビーで落合い、一緒にいつもの会合場所である国立図書館に。ホテルのすぐ向かいなので便利。我々の共通の友人のジョンソンさんの計らいによるものだ。
道路を横断中に、ラジャさんから、とっくに届いているはずの映像が届いていないということを聞かされた私は、あまりの話に道の真ん中に立ち止まってしまったほど。


                 <シンガポールでは日本食は当たり前A>

まさか、ありえない!それでは、今回の私の出張の意味がなくなってしまう。早速、フジテレビのEさんに電話。幸い、海外出張中というEさんに連絡が付き、送ってもらったはずの映像の入ったディスクの所在地の確認を依頼。
返事を待つ間、気を取り直して、もう一つの仕事である公演プログラムの原稿チェックをすることに。国際機関と各国政府の関係など外交問題が絡むだけにラジャさんも慎重。予想以上に時間が掛かりそうだ。そこへ、ビデオプロダクションから二人のスタッフが到着。
事情を話して、取り敢えず、私が日本から持参したテレビ番組からとった映像、これは、当時個人的に福村さんがビデオ録画したものだ。これを参考までにパソコンを使って上映して二人に見せる。また、私が取った関連の写真なども示しながら、この事業の背景について詳しく説明。4人で出来上がりのイメージについて意見交換。


                 <シンガポールでは日本食は当たり前B>

そうこうしている内に、Eさんから電話。国際宅配便会社に問い合わせたところ、どうやら映像ディスクはシンガポールに着いてはいるのだが、動画データということで、違法コピーを心配するシンガポール税関により検査のため留め置かれた可能性が高い、と判明。これでは今日中の入手は無理だろう。仕方がないので、出来上がりのイメージを細かく確認し、今後の段取りを決めたあと、二人を帰す。
その後、ラジャさんと二人で昼食を取りながらシナリオの中身について意見交換。その後、場所をホテルのロビーに移し、二人で公演プログラムの原稿チェックを続けているうちに、夕方になってしまった。朝、10時から午後5時まで。7時間もの間、ああでもないこうでもないとやっていたことになる。
久しぶりに自宅に帰って夕飯というラジャさんを送り、私はホテルの部屋から、すでに電話で伝えていた公演プログラムの修正箇所の詳細を念のため、福村さんのマネジャーのSさんにメールで送信。


                 <シンガポールでは日本食は当たり前C>

夜は、ミャンマー通のWさんが不在なので、Cさんに会う予定だったのだが、何度かけても電話が通じない。やむなく、ひとりで食事をすることに。
普段、一人の時は裏のデパートの地下スーパーで買ってきて済ませるのだが、いつも、期待したほど美味しいものには出会ったことがない。そこで今回は、中華街にまで買出しに出掛けることに。
ふと、ある通りの店の前に長い行列があるのに気づく。一旦は通り過ぎたものの、余りに長い行列なので気になり、私も忍耐強く行列に並び、やっとのことで大きな肉まん(50円)などを仕入れる。
帰りに裏のスーパーでビールを買い込み、ホテルの部屋で食べる。行列が長かったので、少し期待したが、味の方は大したことはなかった。どうやら人気の秘密は味より値段にあったようだ。


                  <ホテルの部屋でひとり肉まんで夕食>



10時 ASEAN事務局ラジャさん
急遽決まったシンガポール出張 [2010年10月09日(Sat)]
10月9日(土曜日)
ハノイでのASEANオーケストラ・コンサートを月末に控えながら、日本財団側が担当することになっている音楽祭の際に使うビデオの制作が遅れている。しかし、この度、この中に組み込むべく以前からフジテレビに依頼していた福村さんの奮闘を描いた番組の映像が、漸く手に入ることになり、至急、シンガポールでシナリオを作ることになった。
日本で1993年に放映された福村さんがハノイの国立シンフォニーオーケストラを立て直すさまを描いた番組の映像だ。日本のテレビが過去に放映した番組の映像は一般に著作権が入り組んで再使用が極めて難しい。半ば諦めていたものが、しかもテレビ局の格別の好意により、破格の使用料で手に入るという連絡を受け、急遽、ラジャさんの自宅のあるシンガポールに集まり、ビデオ製作会社のスタッフを交えて他の映像と合わせた上映用ビデオを一気に作ってしまおうということになったものだ。
前回、ハノイに出張した際に、ペプシコのナムさんと相談してアドバイスをもらった上、上映の場所もハノイなので、当初はベトナムの制作会社を使おうと考えていたのだが、それではラジャさんが作る英文のシナリオにシンクロさせる形でのビデオ制作は間に合いそうにない。
そこで、フジテレビにお願いして番組の映像を国際宅急便でシンガポールに送ってもらい、シンガポールで作ることに変更。出発前に、お願いしておいた映像が私の日本出発前日の金曜日中には、シンガポールに到着することを確認して出発した。


      <シンガポールの郵便局は日本のキャラクターでプロモーション  地下鉄車内で>

17時30分 成田発
23時40分 シンガポール着
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