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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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日本国籍を希望する残留日系人の家を訪ねる [2010年03月05日(Fri)]
3月5日(金曜日)
朝、7時45分ホテルのロビーに集合して、ワゴン車に乗り込む。程なくして、車は大きな建物の前に停まる。そこが、フィリピン日系人会事務所の入るビルであった。日系人会が経営する学校もここにある。大きな中庭のようなスペースに案内される。両サイドには沢山の椅子が並べられ、正面にはステージがあり、そこにも椅子が並んでいる。

     <日系人学校生徒によるお神輿も登場>

予定の時間を大分回ったころ、日系人協会診療センターの開所式典が始まった。来賓の挨拶などを挟んで日系人学校生徒による鼓笛隊の演奏や、お神輿を担いでのパレードなど、賑やかな式典であった。
式典の後、診療センター正面玄関に移動してテープカット。そして、診療センター内部のお披露目があった。診療センターは3階建て、延床面積987平米の施設。日本財団が約5000万円の建設費を全額負担した。一階には、日系人会直営の臨床検査室と薬局、2階と3階のスペースは一般の医師に貸し出されることになっている。既に、歯科や内科など一部は開業が始まっているが、大半はこれから。産婦人科や精神科などまで様々な分野のクリニックの開業が予定されており、日系人のみならず、一般のダバオ市民の医療事情改善に寄与することが期待されている。


     <新築なったフィリピン日系人協会診療センター>

午後、私は、「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」のスタッフである紫垣さんに案内してもらって、ダバオ市内から20キロほど北のカリナンという町のマラゴス地区に、日系人二世と言われながら、尚、日本政府の認定が得られていないという老婦人に会うために出かけた。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」は、2003年8月、ダバオで開催された日本人移民100周年記念祭をきっかけに設立されたNGOである。戸籍がなかったり、戸籍の所在がわからない日系人に、様々な証拠をもとに、家庭裁判所の許可を得て新たに本籍を設定し、戸籍を作成する「就籍」という活動を中心に、フィリピン日系人のアイデンティティの調査、日本国籍取得等にかかわる法律問題の解決、生活の向上、教育等の支援に関する事業を行っている。(http://pnlsc.com/pnlsc/index.html) 
日本財団は2006年度から同センターの活動を財政面から支援してきている。4年を経て、これまでに230人の身元が判明、うち、48人の戸籍取得に成功している。このセンターの中心人物として理事長を務める河合弘之弁護士と日本財団は、中国残留孤児の就籍事業以来のお付き合いである。
河合さんは30人もの弁護士が所属する大手法律事務所を運営する敏腕のビジネス弁護士。しかし、満州国時代の新京(現在の長春)で生まれ、引き揚げ中に弟を亡くしたという経験を持つ。「一歩間違えば、自分も中国で孤児になっていた」との思いから、中国残留孤児の就籍支援を始め、約1300人もの戸籍取得を実現させた。今度は、フィリピン日系人の支援に乗り出したという訳だ。


    <日系人2世だという老婦人の家>

ダバオ市内から40分ほどでカリナンという町に着く。そこから、小さな未舗装の道を15分ほど進み、マラゴスという地区に到着。みすぼらしい家屋が林の中に散在する。その中の一軒が目指すイルネアさん、日本名を「さかがわとみこ」さんと名乗る76歳の老婦人の家だった。「とみこ」さんのお父さんは、「みつひろ(もしくは、みちひろ)」。マニラ麻作りの農民だったが、戦争中、軍属として埠頭建設に駆り出され、空襲により爆死した、という。しかし、父親に関する戸籍などの証拠書類は発見されておらず、彼女の希望にも拘わらず、日本の国籍はいまだ与えられていない。
周辺には、果樹がぱらぱらと見られる他は、田圃どころか畑のような耕作地も見当たらない。どうやって生計を立てているのだろうかと尋ねると、「時々日雇いの仕事がある他は、そこらの樹になる果物を売ったりして暮らしている」と、イルネアさんの亡くなった息子の嫁だという婦人が答えた。殆ど無職に近いらしく、着ているものは粗末だが、口ぶりは明るく、その表情にも暗さは微塵も見られない。
紫垣さんに通訳してもらって、我々が「とみこ」さんと話をしているところへ、「かいぬまみちこ」さんと称する、もう一人の老婦人が現れた。「さかがわとみこ」さんと同じ76歳。二人は、国民学校のクラスメート。「みちこ」さんのお父さんの戸籍は山口県で見つかったが、そこには、「みちこ」さんの名前の記載はなく、彼女も戸籍を得られていない、という。


    <小学校でも一緒だったというもう一人の日系人老婦人と>

二人は、日本語はいくつかの単語を除き殆ど忘れてしまったが、国民学校で習った唱歌や軍歌を今も覚えているという。我々の求めに応じて、か細い声で、「見よ東海の空明けて、旭日高く輝けば」で始まる愛国行進曲と、「支邦の夜」を歌ってくれた。渡辺はま子が歌い、軍人に人気のあった流行歌である。我々の周りには、いつの間にか、大勢の村人が集まり、大人しく我々のやり取りに耳を傾けていた。
ふと気になったので、「とみこ」さん達に、「自分たちが日本人の血を引いていることを村人にいつまで隠していたのか」と、聞いてみた。すると、「この村では皆が最初から知っていた。日本人であるからと言って苛められることもなかった」という答えが返ってきた。彼女らの話を聞いて、私は二人が日本人であることを確信した。
「フィリピン日系人リーガルサポートセンター」の活動により、これまでに、フィリピン日系人200人以上の身元が判明したとはいえ、今なお「とみこ」さん達のように、身元を示す書類が不備で、戸籍獲得の希望が叶えられない残留2世が約800人いる。彼らは高齢で、次々に亡くなりつつある。身元調査、戸籍回復が急がれる。


    <「サカガハトミコ」とカタカナで自分の名前を書いてくれた>

7時45分 ホテル出発
8時半 フィリピン日系人会診療センター開所式
13時 ホテル出発 カリナン県へ
14時 マラゴス村日系人老婦人訪問
14時45分 フィリピン日本歴史資料館訪問
15時45分 ダバオ開拓の父、太田恭三郎慰霊碑参拝
16時 日本人墓地訪問
19時 日本フィリピン企業協議会(JPIC)主催夕食会
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