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ベトナム現代史の生き証人、カバントランさんのこと [2009年12月16日(Wed)]
12月16日(水曜日)

          <アメリカン大学の正門>

一足先に帰国するモンゴル置き薬事業の責任者の森さんと一緒に朝食の後、私はホテルの同じレストランで、もう一人の人と会った。ベトナムで長年続いている義足配布事業のパートナーVNAH(Vietnam Assistance for the Handicapped) の責任者カバントラン(Ca Van Tran)さんだ。カバントランさんとは、日本の学校との姉妹校提携をベースにした学校建設事業でも、彼が作ったもう一つのNGOであるHealthEd (Health Education Volunteers)を通じて協力してもらっている。
前回、私のベトナム出張の際は、彼とは同時期ベトナムにいながら行き違いになってしまい会えずじまい。二人でゆっくり話をするのは久し振りだ。 来年度以降の事業の基本方針について意見交換。
何故、ベトナム事業の責任者とワシントンで会うのかと言えば、それは、彼がいわゆる越僑と言われる亡命ベトナム人で、今は米国籍、自宅がバージニア州北部にあるためだ。ここワシントン・ジョージタウン地区からは、車で30分ほどの距離。
カバントランさんの人生は、まさに波瀾万丈。ベトナム現代史の犠牲者であるとともに、ヒューマンストーリーの生き証人だ。
カバントランさんは1951年生まれ。青春期は文字通りベトナム戦争の真っただ中で過ごす。生まれ故郷は中部ダナン近く、南北ベトナムの境界線近くだ。高校1年生の時に、校舎は爆撃により破壊され、彼の学校生活は中断される。そして彼は得意の英語を生かして、米国海兵隊の通訳として生活を始める。
サイゴン陥落の時1975年4月30日、結婚して子供が生まれたばかりの彼はサイゴンの米国大使館で働いていた。この日、ベトコン・北ベトナム連合軍の予想を遥かに上回る急ピッチのサイゴン侵攻により、米軍はついに戦闘放棄を決断、彼は米国大使館から脱出船への乗船許可を与えられる。しかしサイゴンの町中が大混乱に陥る中、愛妻のキムさんとは連絡がつき合流出来たものの、生後2カ月で、姉のもとに預けていた息子を連れ出すことは出来ず、苦渋の決断の結果、赤ん坊を置き去りにして夫婦二人で脱出。
ワシントンに上陸後は、ショッピングモールの掃除人夫を振り出しに、文字通り裸一貫からわずか15年後には4店舗をもつレストランのオーナーにまで上り詰めた。高級住宅街に8寝室の大邸宅を構え、まさに、アメリカンドリームを地で行くサクセスストーリーであった。
この間、彼の姉のもとから手紙が届き、息子が無事で育っていることを知らされる。しかし、ベトナム政府は、息子の出国もカバントランさんの入国も許さなかった。彼の出来ることは、姉あての小包みにそっと米ドル札を忍ばせることだけであった。そして、ある日彼のもとに訃報が届く。彼の姉と兄たち一族13人がボートピープルとしての脱出に失敗、全員死亡したというのだ。
そして、統一後の経済不況と外貨不足に悩んだベトナム政府は、ついに1990年外貨目当てに脱出ベトナム人の再入国を解禁。カバントランさんはそのチャンスを逃さず、第一陣に加わりベトナムを再訪する。彼は17歳になった息子とついに再会するが、ベトナム政府は連れて帰ることは認めない。傷心の彼の心をさらに痛めたのは大勢の傷痍軍人の姿であった。地雷などで腕や脚を失った旧南ベトナム軍の兵士たちが街中の雑踏で物乞いをしていた。
彼は、ワシントンに帰るとすぐに、これら障害者支援のためのNGOを立ち上げた。ベトナム障害者支援組織=VNAH(Vietnam Assistance for the Handicapped)である。しかし、当初、仲間の在米亡命ベトナム人からは自分たちの敵である社会主義ベトナム政府を支援するものとして強い反対を受け、脅迫されるなどの目にあった。一方で、ベトナムに支援に行っても現地では長い間、警察に尾行されたり、尋問されたりするなどの嫌がらせを受けた。
孤立無援の彼を支えたのは夫人のキムさんであった。米国はおろか、助けに行ったベトナムでもスパイ扱いされ、トランさんは何度ももうやめようと思った。その都度、キム夫人が、やめてはいけないと励ましたという。孤立無援の中、トランさんは何年もの間、自己資金でベトナムに渡り、車イスや義足の寄付を続け、障害者のための職業訓練校を作るなどの支援を続けた。
その後、日本財団などが彼のこうした努力を知り支援を始め、今では米国政府やベトナム政府なども彼の事業を支援するまでになった。しかし、その間、彼は活動資金の捻出のため、自分で築いたレストラン・チェーンを切り売りし、結局、手元に残ったのは一店舗だけという。


        <休暇中で閑散としたアメリカン大学のキャンパス>

カバントランさんと別れ、私はワシントンのほぼ北端に位置するアメリカン大学へ。コッグバーン助教授に迎えられ、国際関係学部長のグッドマン教授に会う。コッグバーン助教授はこの8月にバンコクで初会合を行った障害者大学院大学設立準備専門家会合のメンバー、グッドマン学部長は彼を紹介してくれた上司である。大学の食堂で二人と食事をしながら、明日からの会議の打合せを行う。
夜7時、近所のすしバーで、明日から始まる障害者大学院大学設立準備のためのコアメンバー会合のために駆けつけてくれたデカロさんとキャンベルさん、日本財団から到着したばかりの石井チームリーダー(課長)と担当の吉田君の5人で夕食を兼ねた打合せ。


        <歴史の重みを感じさせるアメリカン大学内の建物>

9時半 VNAHカバントラン代表打合せ
12時 アメリカン大学国際関係学部グッドマン学部長表敬
14時半 元IFC菊地さん面談
19時 IDPPコアグループ夕食会
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