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大野修一(日本財団)
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犬山城 (01/18)
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大勢の夢を乗せたジャカルタ義肢装具士学校 [2010年03月02日(Tue)]
3月2日(火曜日)
朝、ホテルにカンボジアトラストのジャカルタ代表のピーター・ケアリーさんが我々3人を迎えに来てくれた。英国のNGOであるカンボジアトラストは日本財団にとって、カンボジアでの義肢装具士学校事業以来のパートナー。スリランカを含めた3カ国の義肢装具士学校で、技術面のみならず、事業企画や実際の運営面でも中心的な役割を果たしてくれている。
昨夜遅く到着された澤村博士を加えた我々が乗り込んだ車の車体には、大きく腕を広げた笑顔をモチーフにした日本財団のロゴ。半年ほど前に納入されたばかりのぴかぴかの日本車だ。


        <日本財団のロゴを付けたジャカルタ義肢装具士養成学校の車>

わずか30分足らずのドライブで、ジャカルタ義肢装具士養成学校に到着。三階建て二棟の総床面積は1240平米。余裕ある敷地に建つ立派な学校の姿に「ほう」という声があがる。学校から道路一本隔てた反対側の敷地に建つジャカルタ医療専門学校の講堂に案内され、第一回目の国際諮問委員会の開催を記念する式典に参列。インドネシア保健省審議官のギアトノ博士が来賓として挨拶。彼自身、事故で一時は車椅子生活をしていたというエピソードを披露。ギアトノ博士が本事業の政府内での一番の理解者、推進者である。
その後、再び、学校に戻り、二階の教室で国際諮問委員会が始まった。15名ほどのメンバーのうち、外国人は日本人2名、イギリス人2名、スリランカ人1名の計5名。残りは、インドネシア人。内2名は実業家のギルバートさんとソロから駆けつけてくれたインドネシアを代表する整形外科医のハンドヨ博士。残りの8名が、行政官や医官などの保健省関係者や医療専門学校関係者など。
司会のピーターさんに促され、各委員が先ずは自己紹介。私は、その言葉を聞きながら、このジャカルタ義肢装具士養成学校が、今日ここに委員として集まった人々、それぞれにとっての長年の夢を実現するという大変重要な役割を果たしていたことに思いをめぐらせていた。

            <自己紹介する国際諮問委員会のメンバーたち>

澤村誠志博士は、義肢に関連する整形外科の権威として、日本国内のみならず国際的に著名な人である。今年、79歳というが、今回も日本から一人で駆けつけ、一泊しただけで、なんと今夜の夜行便で帰国というから驚きである。
澤村さんは、ISPO(国際義肢装具協会)の元会長であるが、日本では、ベトナムのシャム双生児ドクちゃんの義足作りを担当したことで知られている。その澤村さんが、アジアに義肢装具センターを作ろうと考え始めたのは、1980年代のことであったという。その後、日本外務省などのアドバイスをもとに、インドネシアをその候補地と定め、1992年には長年の親友であったインドネシア人のハンドヨ博士や弟分の田澤博士と共に、インドネシア政府や、国際機関、ISPO(国際義肢装具協会)などに対する働きかけを開始した。
そして、その後も、何度もジャカルタまで自ら足を運び、両国政府にもその意義を説明するなど、大変な努力を払われた。だが、長年にわたるたゆまぬ努力も官僚組織の壁などに阻まれ、結局インドネシアでは結実することはなかった。
しかし2002年になって、澤村さんの夢はタイのバンコクに場所を変えて実現することになった。日本財団が田澤博士の提案を受けて、資金協力することでスタートした国立シリントーン・リハビリテーションセンター内に設けられた義肢装具士学校である。田澤博士が技術顧問として現地に張り付き頑張ってこられたお陰で、シリントーン義肢装具士学校は間もなく東南アジア初の国際資格一級校となろうとしている。


     <79歳の澤村博士と若手日本人講師の森本哲平さん>

一方、そのころ、人口大国インドネシアでの良質な義肢義足に対するニーズと、ハンドヨ博士ら地元関係者の熱意に注目したもう一人の人間がいた。カンボジアトラストの国際部長(当時)のカーソン・ハート氏である。日本財団は、カンボジア義肢装具士学校(CSPO)がカンボジア国内のみならず、周辺のアジア諸国から留学生を集めるまでに成長したことを背景に、カーソンさんにアジアのほかの国でも同様な義肢装具士学校を作るための予備調査を依頼した。義肢装具士学校に対する需要と供給体制に関する一年間の調査の末に、彼が出した結論は、フィリピン、インドネシア、スリランカの3つの国でその条件が備わっているというものであった。その間、カーソンさんはインドネシアではハンドヨ博士にコンタクトし、ハンドヨさんの熱意と誠実さにインドネシアのファンになっていた。
しかし、カーソンさんがあげた三つの候補国の中から、日本財団がその時、カンボジアに次ぐ義肢装具士学校設立支援対象国として選んだのはスリランカであった。当時、スリランカは内戦の終結に向けて一時的な停戦協定に漕ぎ着けたばかり。日本財団としては、このタイミングを捉えて、対立する二派の和解を促進するための一助にと、戦争の犠牲で手足を失った双方の兵士や民間人のニーズに応えるための義肢装具士を養成する学校を、スリランカに設立することにしたのだった。それから5年、スリランカの学校は既に20名以上の卒業生を送り出し、彼らはスリランカ中の国立病院で活躍を始めている。
スリランカの学校の運営が軌道に乗りつつあった設立3年目の2006年、我々は残り二カ国での学校設立を考慮する時期が来たと判断、カーソンさんに、先ずはインドネシアでの学校建設を検討するよう要請した。当時、母国アイルランドに戻り、カンボジアトラストの国際担当理事に就任していたカーソンさんは、カンボジアトラスト創立当時の発起人の一人で、オックスフォード大学の教授のピーター・ケアリーさんにインドネシアでの事業化が進み始めたことを報告、彼の参画を打診した。
インドネシア史の専門家として名を成していたピーター・ケアリーさんだったが、この話に神の啓示を感じたと言う。そして、なんとオックスフォード大学教授の職を捨てて、インドネシアでの義肢装具士養成学校の事業責任者としてインドネシアに赴任することを決意。今ここに、カンボジアトラストのインドネシア代表として、今日の国際諮問会議を主宰している。
このように、ジャカルタ義肢装具士養成学校は、私だけではなく、ここにいるみんなの長年の夢にささえられて実現したプロジェクトだったのである。


ピーターさんについては:https://blog.canpan.info/ohno/archive/565、カーソンさんについては:https://blog.canpan.info/ohno/archive/514、ハンドヨさんについては:https://blog.canpan.info/ohno/archive/99 などの私のブログをご参照。

        <和気藹々 ジャカルタ義肢装具士学校の学生たち>


            <真剣なまなざしで装着技術の実習中>

7時 朝食
7時45分 ホテル出発
8時半 ジャカルタ義肢装具士養成学校式典
9時半 国際諮問委員会
16時 空港へ出発
19時5分 ジャカルタ発
21時40分 シンガポール着
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