10年前シリーズは ネタそのものが10年前の春にとぎれたので、あと数か月でおしまいになります。緑と水のブログにアップする内容と、個人ブログにアップする内容と 微妙に使い分けてきました(どちらかというとブログ優先)。
その使い分けは これからもあるでしょうが、10年前コンテンツはもうじきネタ切れということです。
第239回 ねじ式 2005/01/12
夢を覚えておけないのはなぜだろう。
朝方に、ドキドキして冷や汗をかくような夢から目覚めて、その続きをどうしても見たくてまた寝することがある。醒めかけた夢の中で、これはたぶん夢だと思いながら、続きがもっと見たくてしがみついてることもある。野を越え山越えマウンテンバイクで走っていたり、妙に懐かしい建物に迷い込んだり、旅客機が墜ちて来たり・・
明け方の4時頃にトイレに行った後で見る夢なら、なんとなく覚えていられる。夢の画像の展開スピードは何倍速かで速いから、たった3分のうつらうつらの間に相当の長尺が回っている。知ってる人、知らない人、次々といろんな人にも出会う。あの先の角を曲がったら今度はどうなるだろうか、と思ううちに目覚めてしまう。まれにうまく夢の続きが見えたような気がする朝でも、それは本当に続きだったのだろうか。反芻してみてもあいまいな荒筋しかたどれない。あれほど鮮明だった光景がすぐに霞んでしまっている。顔を洗って30分も経つと、すっかり全部忘れてしまう。なぜだ!
見たい夢ならいくらでもある。「一富士・二鷹・三茄子」とおまじないをしたからといって、そうは問屋が卸さない。好きなあの娘とHして・・とか、人に言えないようなことでも夢に見るのは勝手なはずだから、念じれば自動的に脳内に画像が浮かぶなら、かなり素敵なことではある。
私が見ている夢はいくら面白いからといって、私の脳の引出しの中にある潜在意識と記憶の断片をつづり合わせたものでしかないはずだ。脳みそには二層あって、奥の方の潜在意識の脳が暴走して勝手に見ている「夢」を、表層の意識が追いかけようとしても所詮はついていけないのである。深層の脳が、誰にも迷惑をかけない深夜にひとり遊びをしてるのに目くじら立てなくてもよかろうと遠慮しているのが、実用本位の表層の脳なのかもしれない。
自分の深層心理が暴走する過程の摩訶不思議な夢の続きを、もう一度見てみたいと願うのは、まさに当の本人だけである。夢の話なんて本人以外に誰も興味はない。こうして今もなにか考え続けている脳みそのすぐそばに、汲んでも尽きない記憶のネタが無限に埋め込まれて夜な夜な勝手に起動しているというのに、表層の意識では決して追いかけられないとは。脳のバカ。(2004/01/12)