大田市立大田小学校 出口分校 昭和42年文集『風』

うめとり 一ねん まさる
ぼくは
うめをとりにいきました。
そらをみたら
あおくなっていました。
ぼくはのぼって
とりました。
あとで
たけでたたきました。
どたどたといって
おちました。
しゃぼんだま 一ねん みほこ
しゃぼんだまをふいた。
ふくれんこに
ばらばらと
きえた。
あめがふった
みたいだった。
しゃぼんだまをふくと
ふくらんで
せんせいの
おへやへいって
きえた。
おいつけて
いった。
ふうりん 一ねん かずゆき
かぜが
ちらちらふくと
ふうりんが
ちゃらちゃらとなります
ぼくは
ふうりんがなると
「いいおとだな。」と
ふうりんを
みます
じどうしゃ 一ねん こうぞう
いま
きいろと
はいいろの
じどうしゃがとうた。
じどうしゃは
じゃりをつんでいた。
ひとがふたりのっていました。
じどうしゃは
おもたげに
まちへいきました。
つばな 一ねん じょうじ
つばなは
かわのほうに
いっぱいさいている。
はやしのようだ。
わたみたいだ。
かぜがふくと
ゆらゆらゆれる。
いっぽんとって
ほっぺたをなぜたら
いいきもちだ。
大きくなろう 清水つる子
大きな声で
せい一ぱい走る
夏の青い空
白い雲
涼しい谷の
風が吹く。
こどもたちの
知ろうとする力
もとめようとする力
かぎりなくのびる
音がする。
その眼で
その手で
のびるんだ。
ワラ半紙 ガリ版刷 8ページ 発行部数想定10部 昭和42年刊行?
表紙は先生の筆書き
デジタル化しておきます 和田譲二(54歳)
清水先生は「つる女」の名で地元新聞にも寄港する俳人でした。
当時は知りませんでしたが。たぶん臨時の先生なのでしょう。
わたしら一ねん5人と 二ねん4人の 9人で通ったのが分校の最後の年で
翌年からは、たった2kmしかはなれていない本校(大田小学校)に統合されてバス通学になりました。大田小学校は1学年4クラス40人学級、当然の流れです。
同級生5名の消息は常につかめていますが、先輩たち?の4人は確かでありません。
この規模の複式クラスでも、わずか1年だけの重複だったので、学年が違えばあとの本校生活でっみんなシャッフルされちゃってわからなくなります。。