プチ「哲学」コラム ある程度空白の時間がないとまとめられないので、当時の筆力には自分でかないません。
しかし、性格タイプ的にはよくある人の話だということが、ようやくこのごろわかってきました。
第147回 いまここで 2003/01/29
私ごときの場合は、どんな現象でも時間的空間的広がりの中で位置づけて見るという認識方法に偏っている。本を読んで勉強して、広い世間からものを見るのが教養であると、学生時分に教わった。勉強は疎かになっても、この路線からは逃れられない。
これと正反対の認識方法が”いま、ここで”というものの見方である。普通のおばさんたち(おばさんに限るわけではないがこういえばたとえが早いだろう)の生き様だから特別なことではないが、私の不得手な視点だから時には意識しておこうと思う。
いまここでしか意味のないことがある。たとえば、料理や酒の味わい、季節の花と風の薫り、温泉の浸かり心地、セックス、ギャンブル、ショッピング。難しく考えてちゃ楽しめない。いまここにいない他人と感覚を共有しようとしても無理である。かりに巧みな表現ができたとしても、それはホンモノとは別に新たな価値を創出したということである。
”いまここ”を楽しんだり悔しがったりしているだけでも、平穏な人生を送ることはできる。自分と外界との接点は”いまここ”だけだから、世界は”いまここ”にあるひとつの世界しか存在しないという理論も成り立つのである。理論的に考えなくても、考えない姿勢こそがその認識の結果であろう。唯物論者としては許し難い発想である。
”いまここ”に充足している人と較べると、私ごときはいつも反応がワンテンポ遅くなって困ってしまう。
温泉のお湯はどうして湧くのだろう?この宿に後継者はいるのだろうか? あれこれいろんな層位のことを考えているから、言葉を捜すのに時間がかる。いいお湯ですね、そうですね、とはいかない。
しかし、考えを巡らしているからといって、なんら生活上に実利をもたらすことではないから、はたから見れば、私のほうこそ、いまここだけを楽しんで暮らしているように見えるのかもしれない。(2003/01/29)