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風呂屋の鏡 [2014年04月20日(Sun)]
事務局長の15年前シリーズ(シリーズになるのか?)
ブログ的にはありうる内容でしょう。
ふと、なにかからの連想で、昔こんなことを書いたことがあるというのは、しっかり覚えているものです。

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連載 第22回 風呂屋の鏡 1999/07/01

 鏡の中の自分に、ふと老人の顔が見える瞬間がありませんか。
 普段、鏡なんて見ないので、たまに風呂屋で眼鏡かけて、裸の自分をじっくり見ていると、誰だこいつは?と思う。白髪の増殖が速まり腹もたるんできたけれど、これでもサイクリングのジャージを着て山の中を走れば、雑貨屋の婆ちゃんを「学生です」とだませるほどには、まだちゃんと髪もあるし、背筋も伸びているつもり。
 年寄りになった自分を鏡で発見するのは、想像力のなせる一瞬の錯覚だから、イメージは永く定着しない。どこかで見たことのあるようなじいさんだったとしか。

 祖父─母─息子、あるいは、祖母─父─娘、という交叉型遺伝相似関係はよくある話で、親戚の顔を思い浮かべても、概ね当たっている。そのルートでたどろうにも、我が母方の祖父は沖縄戦の途上で船ごと沈んでしまい確かめられない。鏡の中にいたじじいは、それでもなんとなく懐かしい顔のような気がした。
 自分がたとえば、70歳位まで生きたらどんな「じじい顔」になるのか、CGの技術で、面相をフケ顔に変換できる技術があるのかもしれないが、簡単にできるなら絶対流行るはずだから、そうたやすいことでもあるまい。
 逆に、若い頃の自分の写真をたまに見ると、結構いけてると思う。この場合は、彼我の距離感なく時空をワープして、当時の気持ちに戻るくらい何でもない。自分の(若→老)の想像は難しいけれど(老→若)の想像はいとも簡単。当たり前である。

 過去の記憶はデジタルデータのように劣化しない性質のものだといえまいか。去年のことも、10年前も、子供の頃も、覚えていられるくらいのことは一定以上のインパクトのあることだから、脳内では日付に関係なく等価でメモリを占めている。人生の最期の走馬燈で幼児の感覚に戻るという話にも、なんら違和感はない。今年読んだ小説では『蕨野行』村田喜代子が見事にその展開を描いていた。
 身近な実感としては、温泉でフウーとするハダカの状態なった時だけ、幾重もの社会関係や役割と無縁の、肉体の変化を素直にとらえられる。幼児の自分も、青年の自分も、老いた日の自分もこの体とつながっている。そんなことをスーツやネクタイに包まれている時にはほとんど考えないもの。都会のオフィス生活が長びくうちに精神的着ぶくれに慣れてしまいそうである。(1999/7/01)
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