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いろいろないろ [2013年10月21日(Mon)]
いわゆるエッセイ風の小品です。
タイトルは変えました。

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第184回 色彩について 2003/10/28 

 われわれが見ているものにはたいてい全部色がある。「見る」とは、可視光線の波長を視神経で感受することであるから、紫と赤の外の光線は見えないのである。
 色には物体色と光源色があって、それぞれ三原色が違う。物体の色は太陽光の波長が干渉して反射したのを見ているのである。夕焼けや信号機の光源色の赤と、血やバラの物体色の赤は意味が違うわけだ。

 さて、私たちはふだんどういう色をみているのだろう。むしろ、どういう物を見ているかのほうが問題である。都市で普通に暮らしている人が目にする物は、空と、公園の木々や八百屋、魚屋の商品のほかはほとんど全て人工物である。印刷物も看板も自動車も建築物も、どこかで誰かがデザインして色決めされた物である。上っ面に塗ってある任意の染料、顔料、インク、ペンキ、コーティングを見て、我々はその物体を特定し認識する。町の中の工作物で、自然の色(=色決めしていない色)は、打ちはなしコンクリートか、舗装のアスファルトくらいではないか。無垢の木材や煉瓦はめずらしい。

 自慢するわけではないが、山で働いていると、日中、自分の持ち物以外に人工物を目にすることがない。草木、空、土や岩、鳥や虫たち・・だけ。今の時期、一気に紅葉が鮮やかさを増して、ある意味派手な背景であるが、どこかの誰かが色決めをしたものはない。紅(黄)葉は一本の樹でも微妙なグラデーションと日々の変化があり、やがて数日後に散ってしまう生き物の一瞬の表情である。

 天然の物の色と、人工物の色、本質的に違うはずだと思うのだが、いかんせん、人間の視神経に及ぼす効果に決定的な違いはない。たとえばカラー写真は、どっちなんだ?
 色を決めるデザイナーの作業も、文化的コードに従っているわけである。なにかを赤い色にする根拠は、赤い色をした天然自然のものに対して歴史的に蓄積された人間の感覚への効果を下敷きにしている。
 では、天然自然の赤を実際にたくさん見てきた人のほうが、赤信号への感受性が高いのか?って、あんまり矮小なハナシだった。日本画の岩絵具の渋い色が、なんとなく味わえるというくらいの素養はできたかもしれない。画集の写真についてなのではあるが。(2003/10/28)
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