• もっと見る
«わんぱ〜く保育園に新しい仲間 | Main | 冷蔵庫の移動»
どこかにたくさんいるもうひとりの自分 [2013年10月02日(Wed)]
ひさびさの10年前シリーズです しみじみエッセイ系
先月はリアルタイムねたが多すぎでお蔵入りでした。

satoimo.jpg

第176回 どこかにたくさんいるもうひとりの自分 2003/09/01

 不条理マンガで知られる吾妻ひでおのギャクで、初対の相手に「生き別れのお兄さん!」と呼びかけて手を握るというのがあった、と記憶している。(確かめようにも、集めていた吾妻マンガは全部20年前に手放してきた。)

 人生の分岐点で、たまたまこっち側の選択肢をとったから、今の自分があるのである。高校を卒業するくらいから、いろんな道が選べるようになって、なんとなく次々に右だの左だの決めているうちに、ここにたどり着いたが、ほかの道を選んでいても不思議はなかった。自分がどんな道をたどったかもしれなかったかの可能性を数え上げれば、ジャーナリストだったり、塾講師だったり、普通のサラリーマンや公務員だったり、炉端焼きの店長だったり、農業や漁師というのもあるだろう。大阪城公園で暮らすホームレスというのもある。少なくともここに並べた生き方には違和感がない。自分がなりえたであろうポジションにいま現実にいる人々が、もうひとりの自分なのかもしれない。みんな生き別れの兄弟たちである。

 私は歴史に「もしも」を認めない唯物論者であるが、確率は認める。確率的に起こりうることは偶然でなく必然の一種である。ありえたであろう別の展開を想像することは無意味ではない。もうひとりの自分が仮に100人いるとすれば、現実の人口は限られているので、数学的に解釈すると、今の自分の中にも他の100人分のもうひとりの自分を内包しているということになる。100人という桁数が正しいかどうかわからないが、とにかくたくさんどこかにいるのだろう。

 似たような原体験をもつ人とは波長が合うので、感覚に共鳴するとともに、相手の身の上が気になる。だから、同年代の著者の本を読むときには、こういう生き方もあったかも、という感慨が伴う。私が「木霊の国から」を発信し続けているのも、どこかにたくさんいるもうひとりの自分へのメッセージなのである。(2003/09/01)
【事務局長の10年前シリーズの最新記事】
コメントする
コメント