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2020年05月31日

コロナ禍をチャンスに 家族農林漁業推進!

コロナ禍をチャンスに 家族農林漁業推進!

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5月はジャガイモ1900g、イチゴ1300g、コマツナ980g、シュンギク950g、エンドウ850g等の7.1kg。
 3月下旬から始まったコロナ禍による外出自粛が終焉した。その間、外出の代わりに屋上菜園に係わり続けていたので、例年にない収穫となった。
ウイルス禍の感染者と死亡者は、世界の中では最先進国アメリカが多く、ブラジルが続くという、予想外のことになった。両国とも新自由主義を誇り、単なるインフルエンザの一種と軽視し、科学を無視してきたことが大きな要因ではないだろうか。
ヨーロッパでも似たような状況で、イタリアとスペイン、イギリスが深刻で、ドイツはかなりうまく対処している。アジアでは、台湾と韓国が早くから真剣に対応し、感染者も死亡者も少ない。
 地球は人間のものとばかりに、勝手気ままに使い続けてきたことを反省する絶好のチャンスではないかと思う。SDGsが叫ばれているが、家族農林漁業こそが本当の持続可能社会づくりなのだと国連は各国に指摘している。外国資源に依存する工業貿易立国を推進してきた日本も、世界に先駆けて、江戸時代の循環型ライフスタイルを再構築することが望まれる。農林漁業と製造業、地域の土建業をベースに、衣食住自給率100%の循環型社会、生物多様性立国を祈念したい!(文責 中瀬)

「韓国現代史の深層」(2)

金東椿、佐相洋子、李泳采

「韓国現代史の深層」(2)

梨の木舎 20.4.10

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2章 「自由世界」の最前線――国家宗教になった反共・親米
越南者たちが作った大韓民国?――信川虐殺/反共主義/宣教奇跡
・ 平安道と黄海道は、穀倉地帯で、住民が中農で、日帝支配下でも地主と小作の葛藤は深刻ではなかった。また開化に積極的で多数が抗日運動に参加し、教育に熱心で、余裕ある家庭は子女を日本留学させた。日帝強占期には、共産主義も広がっていった。また、大韓帝国末期、
開化の風が吹くと信川でもキリスト教信者が増えていった。
・ 1945年8月15日以後、38度線以北で社会主義勢力が人民政権を打ち立て、下層に属していた人々が自分の世の中になったと興奮した。その後、共産主義者たちが力を発揮し始め、キリスト教信者や金持達は大挙して南進した。
・ 1950年朝鮮戦争が勃発して米国と中国が介入すると、戦線は鋸のように南北を往き来した。1950年10月人民軍は北に後退しながら信川地域の右翼らを殺傷していった。その後、右翼キリスト教青年たちが地域の左翼の人々を報復によって殺害したのが信川虐殺だ。北朝鮮人民政権の土地改革過程での争いは、大多数が中小地主出身のキリスト教信者の反発と報復が主因との証言が多い。
・ 信川虐殺は繰り返され、韓国の極右反共主義と政治テロを正当化する背景になった。1950年代以後、韓国は世界で類例のないキリスト教国家になり、北朝鮮は戦闘的な反米国家になった。キリスト教宣教史で、韓国のように短期間に拡がった「奇跡」はないと言われる。戦争と分断が要因だ。戦争で、絶望に陥った韓国人たちに、教会は精神的・物質的な救済の手を差し伸べた。帰国したエリート集団はキリスト教信者が多く、李承晩は憲法に違反してキリスト教宣教の先頭に立った。
・ 朝鮮戦争、左右両派による虐殺、南北の敵対、極右反共主義、宣教奇跡、家族に対する無条件な献身と世襲主義など、今日の大韓民国の特徴はすべて越南者たちが経験した苦難の歴史と言える。
反共が国是になった理由――自由党/不正選挙/金昌龍
・ 大韓民国憲法の第一条は「大韓民国は民主共和国」と明言している。李承晩政権の反共主義は憲法よりも上位で信仰でもあった。韓国キリスト教主流の福音主義の信仰と根本主義は、1987年民主化運動で全斗煥大統領が倒れるまで維持され、現在まで大型教会は政権与党と保守主義を支える基盤である。李承晩と自由党が打ち出した「自由」は、米国と一体になろうという論理であり、
私有財産を拒否する共産主義の脅威の前で自身の財産を守ろうとする生存本能と欲望と言える。
・ 李承晩の独裁打倒「4・19革命」で、学生は「自由でなければ死を与えろ」とフランス革命時のスローガンを叫んだ。馬山で、3・15不正選挙に抗議する学生と市民が通りに出るや、李承晩は弾圧しようとしたが、もはや通用せず、学生は「反共会館」に火をつけ、李承晩の銅像を倒した。
・ 1950年代李承晩政権のナンバー2の金昌龍が韓国を牛耳っていた。植民地時代に満州の日本軍憲兵隊の軍属・伍長として働き、解放後、親日反動分子として死刑宣告を受けるも、脱獄・越南し、警備士官学校を卒業し、活躍する。李承晩の下で絶対的権力を振るったが、部下に狙撃された。
韓米関係は外交関係?――血盟/駐韓米軍/戦時作戦権
・ 1945年9月9日米軍がソウルに入って来た時、「米国人と韓国人は神様のもとで友達である」とプラカードが掲げられた。1950年9月仁川上陸作戦後、マッカーサーと李承晩は中央庁でともに祈祷した。この時から韓国と米国は、「血で結ばれた兄弟―血盟」になった。
・ 8・15直後、朝鮮の人々にとって米国は前の日帝とは比較にならないほど友好的で文明国だった。米国の参戦なしでは、大韓民国は倒れていた。マッカーサーは中国の反撃を予想できず、大きな損失を被った。米国は韓国の反対にも関わらず軍の撤収を断行し、3〜4万人の兵力となっている。
・ 1976年、カーター米大統領候補は韓国の700基の核兵器撤収を公約した。それまで韓国人は核兵器の配備を知らなかった。韓国軍の作戦権は米軍が持ち、自分の運命を自分では守れないのだ。
なぜ日本は謝罪しないのか?――歴史問題/請求権/日韓協定
・ 日本から36年の圧政を受けた屈辱は、日本の政府と国民が過去を否定し、韓国人は傷が癒えることがない。韓日の独島、日ロの北方領土、中日の尖閣諸島が紛争地域なのは、米国の意図が介入している。サンフランシスコ講和条約は、日本を二度と侵略できない平和国家にさせることだ。
・ 韓国は、米国の支援を受けていたので、日本を東アジアの資本主義の砦にしようとしていた米国の戦略にブレーキをかけ、日本の過去の過ちを問いただすことは無理だった。李承晩は反共のため、日本に過去の植民地支配に対する謝罪と賠償を要求するのは難しかった。
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「韓国現代史の深層」(1)

金東椿、佐相洋子、李泳采

「韓国現代史の深層」(1)

 
反日種族主義という虚構を衝く

梨の木舎 20.4.10

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はじめに          
  2015年の「光復節」を迎えるにあたって韓国社会は少し騒がしかった。私は、現在韓国が抱えている問題を出発点に、8・15以後の歴史を振り返ってみたい。大韓民国は国民主権が保障されている民主共和国なのか? 日帝の非人間的な奴隷状態から、韓国人はどの程度「解放」されたのか? 大韓民国はどんな国なのか? この本で質問に答えようと考えた。
@韓国近現代史の基本課題、A大韓民国の国家理念、B韓国「近代」。
1章 民衆は国を失い、国は主人を失って――植民地と分断
・ 100年以上前、西洋諸国を中心に広大な植民地競争が広がっていた。圧倒的な技術優位を背景に、19世紀のアジアにも押し寄せた。その危機感が日本の近代化の原動力となったに違いない。日露戦争は、植民地支配下にあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけた。
・ 大韓民国の国民で安重根を知らない人はいない。1909年、植民地朝鮮の初代統監伊藤博文を狙撃した民族の英雄で、抗日独立闘争のアイコンである。安重根が1905年日露戦争の日本の勝利に歓喜して、日本を先導者として東洋3か国が力を合わせ朝鮮を文明国にしようとしていたことは知られていない。
・ 日露戦争は、東アジアの覇権を狙った日露の戦争として知られているが、日本の背後には英米がいた。日本は「朝鮮を他の国に獲られたら、日本の防衛が危うく、朝鮮の存亡に帝国日本の安危がかかっていた」。日本は表ではロシアに宣戦布告したが、朝鮮全域に軍隊を駐屯させ朝鮮の内政に干渉して朝鮮人に銃を向けた。アジアの後発国日本の、巨大な帝国ロシアに対する勝利は、西欧列強の間で苦しんでいたアジア、特にインドの詩聖タゴールを喜ばせた。
・ 朝鮮の志ある若者は、日本のように門戸を開放し西洋の文物を取り入れようと開化派を賛美した。他方、地位を思いのままにしてきた権勢の朝鮮高官たちは、経済的な欲望と権力を追求する西洋文明を学んで小人の道を行こうとしていると批判した。一部の農民達は、役人の横暴と過重な税金、深刻な身分差別をなくそうと要求した。東学軍が蜂起し官庁を占拠した。それに対して高宗は清国に鎮圧を要請した。日本は、これに乗じて「朝鮮の独立を支持する」という名目で軍隊を派遣した。すぐさま景福宮を占領し、朝鮮の軍隊を武装解除させた。日清戦争は、日中の朝鮮支配権争いだ。
・ 戦争に勝利し、日本は朝鮮の宗主権を確保した。日本軍は数十万人の東学党を殺した。独立教会を主導した尹は、日本留学経験からアメリカの民主主義に感銘したが、人種差別には失望していた。開化期の現象は、キリスト教信者の増加である。安重根も日本が朝鮮を飲み込もうとしていることに気づき、朝鮮独立のための義兵として、ハルピン駅で伊藤博文を狙撃した。
・ 1910年、「東アジアの平和を永久に確保しよう」と日韓併合条約が締結され、大韓帝国が成立。日本の朝鮮支配は、西洋の植民地支配とは全く違うケースである。中国中心の秩序体制では、朝鮮の知識人たちが自国を小中華として日本より優位にいると自負していた。ところが、何十年か前に門戸を開放して手に入れた力で、隣国朝鮮を武力で支配した。日本の支配は我慢できない屈辱に!イギリスがインド統治にある程度の自治を認めたのに対し、朝鮮総督府は完全に統制支配した。
・ 1919年、3・1運動が蜂起した。予想を超えた万歳運動が全国に広がると、日帝は弾圧した。
デモ参加者は200万人に及び、7500人が死亡、5.2万人が検挙された。キリスト教徒が急増した。
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2020年05月25日

「韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち」


赤石晉一郎

「韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち」

小学館新書 20.4.7

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序章 経済学者が警告「韓国経済は滅びるかもしれない」
・ 2019年8月13日、街には反日ムードが高まっていた。日本が韓国に対し輸出管理優遇措置「ホワイト国」除外を通告したことで、緊張が高まった。
・「韓国経済が滅びかねない」と李大根成均館大学名誉教授は天を仰いだ。グローバル経済では、一国ですべてを作ることはできない。韓国のサムスングループは韓国最大の財閥で、親日企業であったから成長したのだ。
・ いま、日韓関係は崩壊の危機を迎えている。きっかけは文在寅政権が誕生し、「歴史問題」が相次いで再燃したからだ。文政権は慰安婦問題解決の「和解・癒し財団」を解散させ、また徴用工損害賠償裁判では日本企業に損害命令が下された。歴史問題を巡る禍根は、日韓経済対立の導火線となり、嫌韓ブームが広がった。
韓国人は年間800万人近くが日本を旅行し、韓国内では日本を嫌いというが、本音は違いそうだ。
第1章 元指導者の嘆き「慰安婦問題は金儲けになってしまった」
・ 市民団体主催のソウルの水曜デモが元慰安婦達の声を代弁していると思う日本人は多いはずだ。そんな中、92.1.11の朝日新聞に「日本軍が慰安所設置や慰安婦募集を監督、統制したことを示す資料が、防衛庁防衛研究所に所蔵されていることが分った」と報じられ、韓国世論に火をつけた。
・ 従来、日本政府は戦後賠償問題について1965年の日韓請求権・経済協力協定で「完全かつ最終的に解決された」としていたが、慰安婦問題は世論の批判もあり個別補償を模索することになる。1995年、元慰安婦への「償い金」支給のための「女性のためのアジア平和国民基金」を設立した。
・ 長く慰安婦問題に取り組んできた挺身隊問題対策釜山協議会理事長の金文淑は、「植民地であるが故に犠牲にされ、男尊女卑世代の女であるが故に差別され、家父長的時代の女であるが故に泣かされた歴史は、私たちの世代でもう終わりにして、すべての人間が人間らしく平和に平等に生きる社会を、次の世代に譲り渡すことこそ、『歴史の掘り起こし運動』の真の意義だと思う」と語る。
第2章 元米軍慰安婦の憤り「なぜ日本軍慰安婦だけが」
・ 私は2歳の時に朝鮮戦争で母、父を亡くした孤児でした。基地村の食堂で働いていて17歳の時に『クラブ』で働くことになった。無教育だったので米軍慰安婦にならざるを得なかった。売春は違法の中、朴ウネ大統領の父・朴正熙が特例をつくり米軍慰安婦政策を推進した。「私達が苦労してドルを稼いだことが、韓国の高度経済成長のベースになったんじゃないのかしら」と語っている。日韓合意では日本軍慰安婦に対して一人約一億ウオンが支払われることが決まった。
第3章 ベトナム戦争犯罪を追及する記者「韓国軍は何をしたか」
・ 私がベトナム戦争での韓国軍による虐殺問題を知ったのは、ホーチミン大学留学時、修士論文のテーマを探していた時に、『南ベトナムでの南朝鮮軍の罪』という報告書に出会った時である。
・ 韓国がベトナム戦争に参戦したのは、朴正熙時代だ。内戦に介入していた米軍が北爆を開始し、ベトナム戦争が本格化。1964年から支援部隊を送っていた韓国も本格的な派兵を決める。南ベトナムからの要請という名目で1965年に集団的自衛権を行使し、朴大統領は32万人もの兵士を投入。
・ 「猛虎隊」「青龍隊」「白馬隊」3部隊の基地造成のために、9千人の村人を追い出し、虐殺した。2014年、国連で朴大統領は「戦時の性暴力は明らかに人権と人道主義に反する行為」と発言した。
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2020年05月19日

「新型コロナ問題を考える」

基礎研東京支部ウェブ研究会

「新型コロナ問題を考える」

第1回 中国・韓国との対比からー日本政府の対応は??

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日時: 5月16日 14:00〜16:30  ZOOM方式
主催: 基礎経済科学研究所(基礎研)東京支部
はじめに 
  現今の新型コロナをめぐる動きは世界的な規模で、100年前に流行したいわゆる「スペイン風邪」と比しても経験したことのない事態となっている。これが社会科学に提起する問題は広汎かつ根本的なものだ。基礎研東京支部では、この問題をめぐって様々な角度からシリーズでウェブ研究会を行うことになった。
司会 原田收(東京支部事務局)
講演T 姉歯暁(駒澤大学経済学部)
「中国・武漢におけるコロナ対策の経緯と市民のくらし:中国・武漢からの報告をもとに」
・ 問題発祥の地・武漢は、中国の中心に位置し、中国最大の農村地帯を含む湖北省の中心である。湖北省は日本の約半分の面積で、武漢市は兵庫県より少し大きい面積で、人口は1100万人、
 主要産業は自動車産業で日系企業が162社にも。武漢大学は政府のシンクタンク大学で、武漢市は80を超える高等教育機関が集まる学生120万人の学園都市でもある。住民の所得も高い。
・ 私は昨年11月に武漢農村の調査を行った。その関係で現地からの情報をもとに報告したい。
 武漢の情報については欧米は活発に発信しているが、日本のメディアはかなり偏っている感がある。武漢大学の桜並木は中国一で、日本軍が占領し軍病院にした時に慰めのために持ち込んだものだ。
1.閉鎖以降の必需品の購入
外出制限:ピーク時は社区(居住区)からも、家やアパートの各部屋からも出られなくなった。
当初は自由 ーー3日に一度ーーボランティア以外の外出禁止(社区のゲ―トでで                 コミュニティの委員、ボランティアが制限した)
 必需品の購入:スーパーを閉鎖、自由購買停止、ボランティアによる30人以上の共同購入に。
      ネットと電話でボランティアが注文を取り、到着すると各自がゲートに取りに行く。
 2月中旬までのボランティア(党員突撃隊)は感染者の送迎と病床の整理だったが、中旬以降はマンションを離れることができなくなり、中心的には食料品などの流通・提供になった。
2.コミュニティとボランティア活動の実態
  生活維持の市民ボランティア:3月までに5万人、全国から届く農畜産物の受取・仕分け等
   個人注文品の宅配、高齢者・障害者の配達・健康チェック・要望聞き、独居高齢者無料配給
   前日に注文を取り、30人以上集まったら配給、市バスや大学バスが配送。
  運転ボランティア:公共交通ストップのため感染者の送迎など。
3.医療崩壊をどう止めたのか。 なぜボランティア活動が機能したのか。
  医療費は公費負担。大学はコミュニティとして全ての生活物質が構内に配置されている。
4.農村地域:集落が封鎖されても自給可能な生産地。携帯などでコミュニケーションを維持対応。
5.中国モデルをどう評価し、日本では何を取り入れるべきか?
  食糧確保のために武漢市のやり方を学ぶ。自由と規制。個人情報。食糧生産基盤の再検討。
(参考)JAグループHP:https://www.jacom.or.jp/nousei/tokusyu/2020/05/200504-44115.php
講演U 大西広(慶應義塾大学)
「危機に現れる資本主義国家の根本的弱点」
 今回の問題は「政策」よりも「体制選択」の議論が必要ではないかと考える。3・11時にも
当初、体制選択が持上がったが萎んでしまった。
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2020年05月16日

「輝くいのちの伴走者 障害福祉の先達との対話」

浅野史郎対話集

「輝くいのちの伴走者 

障害福祉の先達との対話」

 ぶどう社16.11.18



はじめに           
  この本は、対談相手になってくださった「障害福祉の5人の先達」と私の合作で、私は話の引き出し役に過ぎない。5人の快男児と快女児が主役で、私とは長い付き合いで、人間として教わることが多い方々である。
1.日浦美智江(横浜市社協会長1938年生)重症心身障害者の子供たちが導いた人生
・ 2人の子供が気持ちよく飛び立つために、何かしなければと日本社会事業学校研究科に入学した。楽しい勉強の中、精神衛生センターに実習に行ったら、横浜で重い障害児の学校教育を始めるので、ソーシャルワーカーとして働かないかと誘われた。障害のことは全く勉強していなかったがやってみたいと思った。
・ はじめは自分と障害者の世界は違うものと考えていたが、ある時仲間と話し合っていた私たちの顔を見て重症心身障害者が「ケラケラケラー」と笑ったことから、「同じじゃねーかよ」と悟ることができた。その時、障害児教育の意義とか意味とかはどうでもいいじゃんとなった。
教育は、いつか人間は一人で生きていく、そのための力をつけるのが教育だと痛感した。
(浅野)私の最初の心身障害者との出会いは、22歳の厚生省入省研修時の島田療育園だ。「この子たちはいったい何のために生きていくんだろうか」と疑問を持った時に、指導員の先生の「この子たちも昨日できなかったことが今日できるようになるんですよ」というのが強く印象に残った。
・ 横浜の田園調布を目指していた街に障害者施設「朋」の設立は、反対も多い中、地域の人々との話し合いの下に先進的に始めたが、厚生省の制度には合致していなかった。当時新任の厚生省障害福祉課長になった浅野課長が見に来られ、怒られるかと思いきや、賛同頂き、付き合いが始まった。当初は迷惑施設に感じる人もいたが、交流が進み、馴染み、地元の大切な文化施設になっている。
2.田島良昭(南高愛隣会元理事長、1945年長崎県生) 理念と行動力が光る長距離ランナー
・ 小学5年の時、映画「しいのみ学園」を見て、「障害者の施設」づくりにあこがれた。1971年「社会福祉施設整備緊急5カ年計画」ができ、重度障害者の大型施設が作られた。障害者は一般社会では生きられないので施設で守りましょうということだ。全国に素晴らしい建物ができ、若い職員がイキイキと働いていたが、障害者はしょんぼりし、ゴロゴロ、ほとんど反応がなかった。
・ 15歳の時、日米通商百周年祭の派遣団でアメリカ大統領のジョンソン牧場で障害者がいっぱい働いていたのを思い出し、自分で施設をつくろうと考えた。地元の雲仙に帰り、農業高校の聴講生で学び、愛隣牧場をつくり、コロニー雲仙厚生寮を立ち上げた。一部には障害児を使って儲けているとの批判もあったが、障害者の生活自立を目指し、地域で生活させようと努力を積み上げた。
(浅野)田島さん等と厚生省内で「人権問題懇談会」を始め、障害福祉の捉え方に大影響を与えた。
・ 一人の人間としての権利をどう守るかという視点を大事にしなければならないと。あの時集まった人たちが、あれから30年経って、今の我が国の障害福祉の主流になっている。
(浅野)田島さんなしで僕は宮城県知事になっていない。子供の時から政治の世界にいた田島さんの指南で選挙を戦ったが、演説が楽しくなり、泡沫候補が後半には必ず勝てると思えるほどだった。

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2020年05月12日

「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃

加藤文元

「宇宙と宇宙をつなぐ数学 IUT理論の衝撃」

角川書店 19.4.25

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はじめに    
  この本の目的は、望月新一教授が、整数論の非常に重要で難しい予想問題である「ABC予想」に関連して発表した「宇宙際タイヒミュラー(IUT)理論」について、広く一般の読者に判りやすく伝えることにある。
 IUT(Inter-Universal Theory)理論は2012年に発表後、一般社会でも様々な形で話題になった。世界中の数学者から、「IUT理論は新奇な抽象概念が恐ろしく複雑に絡み合っている理論装置で、チェックすることは人間業では到底困難である」と評され、なかなか浸透していない現状にある。
刊行に寄せて     望月新一(IUT理論提唱者)
・ IUT理論は、一言でいうと、「自然数」と呼ばれる「普通の数」(1,2,3、…)の足し算と掛け算
 からなる「環」と呼ばれる複雑な構造をした数学的対象に対して、その足し算と掛け算という
「二つの自由度=次元」を引き離して解体し、解体する前の足し算と掛け算の複雑な絡まり合いの力の主だった定性的な性質を、一種の数学的な顕微鏡のように、「脳の肉眼」でも直感的に捉えやすくなるように組み立て直す(=再構成する=「復元」する)数学的な装置のようなものである。
 足し算と掛け算の間にある「底なしに固いはずの関係」を解体して変形を施すことがまさに理論の核心だ。様々な「緩み」=「不定性」が必然的に付随して、「ゆるゆる」な状態で復元するのだ。
復元後の足し算と掛け算の関係は、本来の関係ではなく、「一種の近似」でしかない。
 多くの著名な研究者が長らく「あり得ない」ものとして認識していたものを、「立派にあり得る」ものとして受け入れることになると、夥しい数の社会的な構造や組織、地位等が立脚している、底なしに「頑丈」とされてきた様々な形の「固定観念」や「評価の物差し」を根底から否定し、覆すことを意味するので、「衝撃的」との受け止めかたは当然でもある。大航海時代のヨーロッパでその説を主張した人たちが社会的な弾圧に遭った「地動説」によって、宇宙の中心に完全に固定されたと考えた地球が実は自然界の何らかの大きな力で動かされて太陽を回っていたと転換したのだ。
 社会の過渡期の真っ只中で生活する民衆に対して、多少の苦みを伴う「薬」と認識されても、本書が数学的な理論と社会を繋ぐ、有意義な「緩衝材」・橋渡し役としての機能を果たす可能性に、大変期待を寄せている。
第1章 IUTショック
2012年8月30日、望月先生が、自分のホームページに500ページ超の4編の論文を公開した。10年以上にわたる努力の結晶で、「ABC予想」という非常に有名で、極めて重要な予想を解決したと主張した。今まで世界の数学者がほとんど手も足も出なかった問題だ。彼は全く秘密裏に理論を構築していたのではないが、既存の数学とは、根本的な考え方や使用言語が全く異なるのだ。
第2章 数学者の仕事
  数学は決して「完成された学問」ではなく、まだまだ発展の余地があり、不完全であり続ける。
 発想の柔軟性や、型にとらわれない自由なアイデアが必要で、若さや体力が重要な学問である。
数学のジャーナルは世界中で200は下らない。これほど価値が多様化し、数学の「使われ方」も多様化した現代、どんな数学も「役に立つ」のは当たり前としか言いようがないとも。
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2020年05月06日

「農福連携が農業と地域をおもしろくする」

吉田行郷、里見喜久夫

「農福連携が農業と地域をおもしろくする」

コトノネ生活 20.1.31

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はじめに 
近年、「農福連携」と呼ばれる農業と福祉が連携して農業分野で障害者
の働く場所をつくろうとする取り組みが増加している。
T章 これまでの農福連携、これからの農福連携 吉田行郷(農林水産政策研)
・ 農福連携の風の始まりは、北海道や柑橘の産地で「本当に人手が足りなくて、ありとあらゆる方策を考えている」となった2015年頃である。多くの農家では後継者ができず、高齢化が進み、リタイアしていく。他方、福祉サイドからは農福連携に対する期待は高い。日本では964万人が障害者手帳を取得されている。身体障害者が436万人、精神障害者が419万人で、高齢化の進展で増加しているが、仕事をしている障害者は88万人に留まっている。そんな中、人手不足の農家を手伝い、障害者の仕事を増やそうと社会福祉法人が増加している。
・ 障害者が農業を本格的に行ったのは「こころみ学園」で、1958年に栃木県足利市内の急斜面を開墾して、ぶどう畑をつくり農業を開始したのが草分けだ。その後拡大し、6haになり、ワイン用ぶどうに切り替え、1980年には保護者の出資金2000万円により有限会社ココ・ファーム・ワイナリーを別途設立し、酒造免許も取っている。1984年に始まった収穫祭には1万3千人(2019年)が参加している。重度障害や高齢生活介護の園生以外は、抱えている障害の特性に適した仕事を担っている。
・ 農家や農業法人が障害者を何人も雇用する取り組みとしては、静岡県浜松市で野菜の水耕栽培を行う「京丸園梶vが先駆的だ。1973年にミツバの水耕栽培を開始し、拡大に伴い1996年から障害者雇用を始めた。現在は、従業員100名のうち25名にもなっている。
・ 岡山市でも2008年頃から農業法人が社会福祉法人等を併設する「おおもり農園」が開設した。
 大森さんの息子さんのUターンを機に、「NPO杜の家」を併設し、農福連携の取組を開始した。
農家・農業法人と社会福祉法人等とのマッチング支援を行う地方公共団体の出現
・ 農福連携に対しては、農林水産省が福祉農園の整備のための補助事業を行うとともに、厚生労働省でも地方公共団体での支援体制構築に対して支援を行っている。そのメリットは、@農繁期等における安定した労働力の確保、A担い手農家で、規模拡大や営業に宛てられている時間の増加、B重量作物(タマネギ、キャベツ等)や、高齢農家の労働力として力を発揮することによる営農の継続、C適期に短期間で収穫できることによる品質向上等で、農家等からの依頼面積も拡大している。
  社会福祉法人側のメリットは、@障害者の工賃の引き上げ、A汗をかく喜び、体力づくり、ストレス発散、農家や自然とのふれあい、B地域農業の振興への社会貢献等々が挙げられる。
企業による農業分野で障害者が働く場をつくる動きの出現と拡大
・ コクヨでは、印刷業務を行う特例子会社を2003年に設置し、法定雇用率を達成していた。そうした中で、CSR活動として2社目の特例子会社「ハートランド」を2006年に設立し、水耕栽培を開始した。ハートランドは、サラダホウレンソウの生産から始め、最近は多品種の栽培も。
園芸療法に取り組む社会福祉法人等の出現     (参考:UNEHASE https://www.une-aze.com/
・ 病院に入院して園芸療法を受けていた精神疾患の患者が心身の状態が良くなったということで退院後、再び調子を崩して入院というケースが少なくないことから、患者を受け入れて園芸療法を行う社会福祉法人等が少しづつではあるが出てきている。川越市の「こえどファーム」は、2002年高齢者、親子による体験農園から始まったが、近隣病院の精神障害者向けに園芸療法を実施する中で、障害者の農業実習・就労訓練を行う「アグリチャレンジ事業」を開始した。25人前後の高齢者に週2日農業体験してもらい、障害者10人には週1日、一般高齢者とともに農業体験してもらう。障害者は、通所している社会福祉法人等の判断で、就労移行支援事業における「施設外支援」として参加するケースもあれば、通所を週1回休んで、あくまでも個人として参加するケースもある。予め高齢者に障害者参加を伝えない方が、先入観なしで自然体の関係ができるとのことだ。
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2020年05月02日

杉森玲子「江戸大地震之図」を読む

杉森玲子「江戸大地震之図」を読む 

角川選書 20.1.27

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はじめに  絵画史料として読む「江戸大地震之図」
・ 「江戸大地震の図」は薩摩藩主島津家相伝の島津文書(平安時代から幕末維新期までの1万5千点、国宝、東大史料編纂所蔵)の10mを超える絵巻だ。それとほぼ同じ図様の絵巻が、アイルランドのチェスター・ビーティ―図書館に「安政大地震災禍図巻」として所蔵されている。鉱山業で財を成したビーティ―卿が世界一周時に購入したという。
・ これらの絵巻は安政2年10月2日(1855年11月11日)に起きた安政江戸地震(M7、最大震度6程度)のもので、死者7000人を超え、政治や社会に与えた打撃は想像するに余りある。
・ 絵巻には司書がないので、文献をもとに絵解きをしたい。前者を島津本、後者を近衛本とする。
第1章 にぎわう町並み
・ 絵巻は、青々とした松に紅葉が映える描写から始まる。それを見上げるように白髪の老人がたたずんでいるのは茶室の庭(上図の右の方)で、窓からは炉にかけられた釜と亭主が覗いている。炉開きと想定される。絵巻を括っていくと屋敷や人物が見えてくる。巻末近くには江戸城の幸橋門外(港区新橋1丁目)に設けられた御救小屋が設置されている。大地震の翌々日の10月4日には、被災した野宿の窮民のため、浅草広小路と深川海辺町続きに、6日夕刻から幸橋門外に小屋を建てた。窮民に寝る場所と食事を提供する小屋は、その後2か所増えている。町奉行所の与力佐久間長敬(1839〜1923)によると御救小屋の資材は定請負人が蓄えておき、1000坪位の仮小屋は半日でできる仕組みが常に用意してあったという。規模の大きな小屋を素早く建てる手立てが整えられていたことは興味深い。
・ さらに注目されるのは、雪の中を歩く行列の場面である。この行列が掲げている4本の旗を見ると、中央に配置された「め組」と先頭は「中門二」とあり、芝中門前2丁目を指す。
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