徐京植/評論集「植民地主義の暴力」
高文研.10.4.15
ある在日朝鮮人の肖像
・ 私は1951年京都で生まれ、55年の人生の大半を日本で過ごした。006年からソウル市内で韓国の大学客員教授として暮らしている。なぜ朝鮮人である私が日本で生まれたのか。それは、日本による植民地時代、没落農民の祖父が生きる道を求めて京都に移住したからだ。生まれた当時人口約120万入の市内に4万人ほどの在日朝鮮人が住んでいた。京都は歴史の長い古都であるだけ前近代的な「部落差別」があちこちに存在した。小学校の近くにあった「朝鮮部落」は、その地区を通る鉄道工事に従事する朝鮮人が住み始めたのが起源である。
・ 祖父はやがて朝鮮部落を出て、廃品回収業「バタ屋」に転じた。父は1922年の生まれで、6歳の時に祖父に手を引かれ日本に渡った。小学校を出ると自転車屋の「丁稚」になった。最大の楽しみは、廃品の山から本や雑誌を探し出して読むことだった。小学校しか出ていないのに知識は豊富で弁舌も巧みだった。酔っぱらった父は私に怪しげな「宇宙無限論」を何度も話した。
・ 父は、日米戦争開始の1941年結婚し、食料生産に従事すれば徴用を猶予されることから京都府周山村の小作農になった。小作だけで食べてはいけないので、農業経験のない母に農作業は任せ、父は繊維製品の仲買で全国を回った。母は死に物狂いで農作業を営んだが、村落共同体の農民の互助システムからも朝鮮人ゆえに排斥された。1945年8月15日、日本が降伏し朝鮮民族が植民地支配から解放された時、農作業中の父は米軍の飛行機の撒いたビラで解放を知り、歓びに泣いた。
・ 解放後、父は郷里の仕送りのために日本に留まった。解放時約230万人の朝鮮人がいたが、多くは帰還し、60万人が在日朝鮮人となった。父は、繊維製品を扱う商売を始め、小さな紡績工場を経営するまでになった。60年代の末に、私の兄2人が韓国へ母国留学し、父は誰よりも喜んだ。しかし、兄たちは1972年軍事政権によって投獄され、父は悲しみで号泣した。頼りにしていた母に先立たれ、3年目に父も死亡した。それから二十数年、私はソウルで生活している。在日朝鮮人の世代交代が進んだが、在日朝鮮人が自分とは何かという問いから解放されることはない。
怪物の影――「小松川事件」と表象の暴力
・ 中央の若い男を両脇から、中年の男が捕まえている。我々はこうした図像を数えきれないくらい目にしてきた。それは米国や南アフリカ共和国の黒人であり、征服され連行される先住民であり、野蛮で凶悪な犯罪者たちである。彼らは、馴致できない理解不能な怪物として表象される。
・ 1958年9月1日読売新聞夕刊:(大見出し)女高生殺し捕まる
(中見出し)一年生の18少年 朝鮮人部落で、犯行自供
(リード)先月21日東京江戸川の小松川高校定時制2年太田芳江さん(16)が同校屋上で絞殺死体となって発見された事件を追求中の小松川署捜査本部は1日午前5時、江戸川区上篠崎町1300朝鮮人部落内日雇人夫李仁竜さん(59)の次男、小松川高校定時制1年金子鎮宇こと李珍宇(18)
(自称ベル工場工員)を殺人の疑いで自宅逮捕、同本部に身柄を留置し取り調べたところ同7時半、犯行の一切を自供した。(中略)5回にわたり読売新聞社に「オレが犯人だ」と電話し、完全犯罪だから絶対につかまらないとうそぶいた殺人魔もついに死体発見以来12日目で新学期始業式の朝、捜査の前にカブトを脱がされたわけだが、捜査本部では去る4月20日同区上篠崎町1917先田んぼで同区鹿町698田中せつ子さん(24)が殺された事件も李の住所が現場の近くであることから同一人物と断定、追及している。………
・ この新聞記事は、読めば読むほど多くのことを考えさせる。そもそも「朝鮮人部落」という正式な地名はあるのか。日雇人夫などをためらいもなく用いている。裁判開始に先立って、被疑者の責任能力を問う精神鑑定から、総合IQ135、「千人に一人の秀才」とマスコミは書き立てている。
・ 李珍宇は、検察官送致決定書によると、少年時代極度に貧しい家庭に育ち、父母とも無学無教養。父は窃盗の前科六犯の好酒家、祖父は賭博常習犯で大酒家。祖父・父とも近所付合いのない偏屈者。母は唖者であった。………
・ もはや実際に何がなされたかが問題ではない。今ここにいる自分と犯罪行為をなしたとされる自分との断絶の感覚。自分が自分以外に者であるという分裂。性欲過剰で極悪非道な「朝鮮人」である自分と、もう一人の本当の自分との分裂の感覚。しかし、本当の自分とはどこの誰なのだろうか。植民地支配が被支配者に引き起こす自己分裂。この感覚こそが、「真実」なのである。
・ 権力にとって最も許すことのできないのは、彼らにとって理解しがたい行為である。権力は彼らが全能であり、人間性というものの隅々まで解釈する権限を有していると信じている。権力は被支配者について隅々まで知り尽くしており、それゆえに被支配者の上に君臨できると信じているのだ。
・ 日本国民の多くは、第二次世界大戦における敗戦を、中国をはじめとする日侵略諸民族に対する敗北としてではなく、強大な軍事力を持つ米国に対する敗北と意識している。米国に対する敗北と思っているのであり、「中国をはじめとする被侵略民族の頑強な抵抗に敗北した」という認識は極めて希薄である。したがって、戦後日本における「戦争責任」論議は、自国の行った戦争は不当か つ違法な侵略戦争であったという認識と反省を深めることができず、むしろ戦争中に繰り広げられた個々の行為の違法性や責任の有無という範囲に局限されてきた。このような傾向は、「戦争責任」論から植民地支配責任という視点が欠落している点に現れている。
・ 「慰安婦問題」を、法が禁じている戦時の犯罪行為に違反しているかどうかという狭義の「戦争責任」論の枠内でのみ論じていては真の解決は望めない。「慰安婦」制度は植民地支配と深く結びついた性奴隷制度であり、その真相解明には植民地支配そのものの責任を問う視点が不可欠である。しかし、日本では、可能な限り戦時の犯罪行為という狭い枠内に閉じ込めていようとしている。
・ 慰安婦問題や強制動員・強制労働など、国家や企業が行った個々の行為の土台に植民地支配が存在し、それ自体が違法であるとする主張は今日まで、「植民地支配が開始された当時の法はそれを禁じていなかった」等の理由でまともに取り上げられてこなかった。日本に朝鮮植民地支配の清算を要求することは、帝国主義支配と植民地支配の清算を求める全世界的な潮流に合致する普遍的な意義を持つのである。
・ 日本政府が「植民地支配」の事実をしぶしぶ認めたのは敗戦から50年の1995年の村山連立内閣で、「過去の戦争や植民地支配は『国策を誤った』ものであり、日本がアジアの人々に苦痛を与えたことは『疑うことのできない歴史的事実』」であると述べたのである。
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