核の世紀 日本原子力開発史
小路田泰直、岡田知弘、住友陽文、田中希生
「核の世紀 日本原子力開発史」、2017.8.15
はじめに
「核の時代」が、科学史的にいえば1905年のアインシュタインによる相対性理論の発見によって始まったとすれば、それはやはり二十世紀という時代の産物であった。
1.20世紀とはいかなる時代か
・ 日露戦争に、アジアの一国である日本が勝利したことにより、世界中で民族独立の動きが活発化した。中国革命同盟会、インド国民会議の反英運動団体化は、何れも1905年のことであった。負けたロシアでは第一次ロシア革命が起こり、社会主義革命というものがようやく現実味を帯びてきた。マックス・ヴェーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を著し、知の世界における啓蒙主義の時代に止めを刺した。
・ 20世紀の時代は一言でいえば、社会のあらゆるレベルにおいて意思の主体、国家のレベルでいえば主権の所在が、個人から集団に移った時代であった。市民革命によって一旦は消滅させられたはずの様々な中間団体に改めて価値が付与され、それを正当化するための社会学が生まれた。
・ 産業資本家が主役であった資本主義が、株式会社が主役の資本主義に変わり、国家主権の所在も国家を構成する一人ひとりの個人、もしくは誰かそれを象徴する特定の個人から、国家それ自体、それを支える人の集合体としての民族なるものに移った。
・ 日露戦争は、19世紀型帝国主義に立脚し満州の植民地化を目指したロシアと、20世紀型民族自決の原則にたって、満州への「門戸開放」原則の適応を目指したアメリカ・日本の戦いであった。だから日露戦争における日本の勝利は、歴史上初めて民族自決の原則が実効ある国際ルールとして確立したことを示す、革命的な出来事だった。インドや中国、世界各地で、民族独立運動が産声を上げたのである。そこで生まれたのが国家法人説で、日本においては美濃部達吉による「天皇機関説」である。
2.20世紀の考え方――「近代の超克」に向けて
・ 主権の存在が個人から集団(民族)に移行し、「民族自決権」が生まれた瞬間から、世界は戦争の危機を如何に回避するか、真剣に考え始めた。その瞬間とは、日清戦争に日本が勝利し、アメリカが清国の領土を保全し、列強による清国分割を阻止するために、門戸開放政策を確立し始めた
瞬間であった。日清戦争前年の1893年、シカゴ万博が開催され、テーマは「世界戦争の回避」
であり、1896年アテネオリンピック開催も同じ目的からであった。しかし、世界戦争は起きた。
・ 「絶対または独立」の主権をもつ国家と国家、民族と民族の、戦争をも辞さない競争・葛藤が
不可欠となった。その競争・葛藤が第一次世界大戦を引き起こし、1700万人の戦死者と2000万人の戦傷者を残して終わった。
・ 大戦終結後、不再戦を誓った世界各国は、国際連盟をつくったが、国際紛争を平和裏に解決する力はなかった。設立提唱者アメリカや敗戦国ドイツ、社会主義国ソ連も参加していなかった。
・ アメリカは、他の列強に対する超越的立場の確保に奔走し、日本も「世界最終戦争」の提唱者石原莞爾を中心にその準備を始めた。石原は、一夜にして東京が破壊される「破壊兵器」が開発されることを前提に、世界体制が構築されるきっかけになる戦争を想定していた。石原や「二キ三スケ」(星野直樹、東条英機、松岡洋右、鮎川義介、岸信介)の満州占領、開発計画が如何に楽観的見通しにたった膨大な計画だったかは、その後たちまち明らかになっていった。
・ 昭和13年には東亜の形成が全く変化し、ソ連は厖大な東亜兵備をもって北満を圧しており、米国は未だ意欲を現していなかった。満州開発が十分に進展する前に、日本は泥沼に陥ることが必至の日中戦争を始めてしまい、さらには革命後の混乱を抜け出したソ連と、恐慌の癒えたアメリカの圧力をもろに受けることになった。日本を取り巻く好環境は既になくなっていた。石原は人間の不完全さから、全人類の永遠の平和を実現するための、やむを得ない大犠牲と考え、いつしか「世界最終戦争」を戦い抜くことそれ自体を、戦争目的とするようになっていたのである。
3 1945年8月15日の意味と戦後日本の原子力開発
・ 敗戦の当日に石原は、憲法9条(軍備放棄)を先どりするような発言をしていた。この石原の受け止めがあったから、マッカーサーからの強制を日本の支配層は誰一人として抗うことなく受け入れたのである。日本の指導者は決して強いられて憲法第9条を受け入れたのではなかった。
・ 大東亜共栄圏の提唱者・国際法学者松下正寿が、戦後苦もなく日本国憲法体制や日米安保体制を受け入れ、それに順応したこと等もその証である。戦後日本の進むべき道は戦前日本の否定、清算ではなかった。石原は、「世界最終戦争」のためにつくりあげられた、高度な科学技術、巨大な生産力を、今度は世界から「持たざる国と持てる国」、人と人の対立を失くすために必要な、「豊かな世界」をつくるために使うことだったのである。それは「世界最終戦争」完遂の延長線上にある課題であった。「世界最終戦争」遂行に関わった人たちは、反省しなかった。その典型が原爆開発に携わった、理研の仁科芳雄をはじめとする科学者(核物理学者)たちであった。
・ 石原が構想した通り、日本が「世界最終戦争」を遂行する中で、「第2次産業革命」を、超大国アメリカを中心とした「世界の統一、永遠の平和」体制を経済的に支えていくために活用するという考え方を、戦後日本の経済復興の中に組み入れ計画化したのが、かつて石原の意を受けて満州重工業開発且ミ長に就任した鮎川義介であった。
・ アメリカは終戦後一貫して日本の核開発能力の実態を調査し、利用価値ありと認識し、湯川秀樹のプリンストン大学招聘が、その第一歩となった。「日本経済復興施策の大道」において鮎川の目指した電源開発が、水力に止まらず、原子力を視野に入れていたのは当然のことであった。
むすびに――中曽根康弘の役割について
一般に原子力開発は、1954年3月2日、突如中曽根康弘や正力松太郎らによって国会に2億3500万円にのぼる原子力予算案が緊急上程したことに始まるとされている。しかし、戦後日本の原子力開発は、戦前日本の原爆開発を継承していたし、再開発のゴーサインを出したのは、戦後日本の中心にTVAモデルの電源開発を据えた鮎川義介であり、支援したのは吉田茂総理であった。
中曽根は原子力開発を進めるに当たって、常に社会党左派から自民党右派までの大連合を意識していた。55年ジュネーブで国連の第一回原子力平和利用会議が開かれ、前田正男、志村茂治、松前重義が顧問となって中曽根に同行した。
所感:高校生時代、「資源の少ない日本は宇宙開発、海洋開発、原子力開発で世界に飛躍していかなければならない」という言葉に乗って、東海大学海洋学部に入学し、その後原発中心の海洋環境調査を担当し続けた者とって、創立者・松前重義氏の名前が出てくる本書は大変興味深かった。
今、日本は他国への原発輸出が不調になり、国内の原発も息の根が止まろうとしている。核の開発は戦前の日本でも最重要課題だったことを知らかったことから、本当かと思ってしまう。
戦前の日本をリードしていた石原莞爾や鮎川義介等が重要な役割をしていたという。歴史に詳しくない身には戦前の太平洋戦争の道筋を理解しているとは言えないが、その道筋が戦後の原発開発に結び付いていることを知ることができた。安倍政権は戦前に戻すことに集中している感があるが、戦争に結び付くことになってしまうことを理解しなければならない。こころ豊かな、平和な世界・日本を守らなければならないと痛感させられる。生物多様性立国を祈念したい。