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2021年09月19日

「第9回首都防災ウイーク」

「第9回首都防災ウイーク」

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開会式 2021.8.28 18:00 東京都慰霊堂
実行委員長挨拶 中林一樹(都立大名誉教授)
100年前、スペイン風邪で世界では1億人 日本では40万人もの人が亡くなった。現在世界では450万人もの方が亡くなっている。ワクチンのなかった100年前に比較し、かなり進歩しているかと思う。防災は、自助・共助・公助が基本で、三密とマスク、手洗い、出かけないが大切だ。3年後には終息を迎えると思う。ポイントは、家族、地域、仕事における人々の絆が最も大切である。どんな自然災害も乗り越える“こころ”が必要だ。
共催団体代表挨拶
 住吉泰男(東京都慰霊協会理事長)
  3・11を祈念し始まった防災ウイークも10年を迎える。
2年後には関東大震災から100年になる。
 瀧澤一郎(東京いのちのポータルサイト代表)
 関東大震災100年、都民の防災意識拡大が今こそ必要。
来賓挨拶 平沢勝栄(復興大臣):3・11の復興も進んだ。いつ大震災が来るかわからない。防災意識を備えよう!
 山本 亨(墨田区長):自助・共助・公助で頑張ろう。
竹あかり点灯式:紹介:原香織。点灯:中林、平沢、山本

首都防災復興特別番組 9月2日14時〜17時みらクルTV
 複合災害(水災害×地震災害)に対する事前復興の仕組み
1.葛飾区における防災まちづくり 清野正彦(都市整備部長)
・ 葛飾区は台地がなく、ゼロメートル地帯が広がっている
ことから、地震と水害に強いまちづくりを目指し、浸水対応型市街地づくり(緊急排水活動拠点、高いビル垂直避難、ボートによる救援物資供給活動等)を進めている。
2.トータルに備える【防災まちづくり】 加藤孝明(東大)
・ 東京都都市利用調査特別委員会で、「東京東部の海水面より低い形成された広大な市街地、いわゆる広域ゼロメートル市街地では、気候変動によって高まる大規模水害リスク備えて、浸水に対応したまちづくりを進める必要がある。」と記載され、新たな土地利用の誘導を定めている。
・ 地域社会の目指すべき目標は、災害時自立(生活)圏構想を提案。
3.流域治水による首都東京のまちづくり 早川潤(荒川下流事務所長)
・ 荒川放水路通水100年を3年後に迎える。2019年台風19号では荒川河川水位が高まり、岩淵水門を閉じ隅田川の氾濫を防止した。
・ これからの治水は、流域のあらゆる関係者が協働する流域治水の時代だ。皆が取り組む流域治水で、SDGsを達成しよう!!
4.「流域治水」から複合災害に備える「流域防災」へ展開 中林一樹
・ 荒ぶる21世紀と脆弱化する社会:地震、温暖化による気候危機、超大型台風、コロナ感染、超高齢化社会、外国人増加・国際化、コミュニティの崩壊、地域社会力の低下が心配される。
・ 一つの災害の復旧する前に別の災害:同時被災型・同時対応型複合災害で直接死・関連死に繋がることに留意したい。
・ 複眼的な取組が必要:国・自治体・企業・NPO・市民の連携!
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「首都直下地震」

平田 直「首都直下地震」

岩波新書 2016.2.19

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はじめに
 東京23区を中心とする関東一円は、日本列島の中でも特に揺れやすい地域と言われる。いったいどのような地震が「首都直下型地震」になりうるのか、そこから考えてみたい。
第1章 首都直下型地震とは何か
・ 首都直下型地震は地震学の用語ではない。首都直下型地震とは、東京付近の地下で発生し、首都機能や国民の生命・身体・財産に直接大きな影響を与えうる地震である。
・ 1923年関東大地震も安政江戸地震も、相模トラフからフィリピン海プレ―トが沈み込むことに伴って発生した地震である。
・ 大地震が都市を直撃し大きな被害をもたらすことは、世界の歴史では少なくない。1755年のリスボン地震では海洋商業国ポルトガルの首都リスボン市の建物の約85%が倒壊した。街の中心部は5m幅の地割れができ、移動も困難を極めた。大きな津波が沿岸部を襲った。M8.5〜9.0とみられている。15世紀の大航海時代にヨーロッパの商業活動の中心地になり、交易による富が繁栄を呼び、果てしなく港が拡大した。
 中世の街を無秩序に開発したリスボンの都市構造は、地震、火災、津波に対して極めて脆弱な状態にあった。地震で、大聖堂、オペラ劇場等当時のリスボンを代表する建築物の多くが倒壊し、また倒壊を逃れた建物も火災と津波で焼失した。復興は急速に進められたが、重商主義政策で世界に覇を唱えたポルトガルだが二度とその地位を占めることはなかった。
1908年のイタリアのメッシーナ地震もヨーロッパで最も大きな被害を出した地震である。
・ 江戸時代の末期、日本では各地で大地震が発生し、関東各地でも多くの被害がもたらされた。最大は安政江戸地震で、家屋の倒壊と火災で7000〜1万人が犠牲になっている。当時の江戸100万人に対し現在は1300万人と、超過密で危険度は増している。
・ 1995年兵庫県南部地震は、六甲・淡路島断層帯の約30kmの範囲で活動して発生した。この阪神淡路大震災の教訓を受けて、国は様々な制度改革を行い、建築基準法はしばしば改正された。この地震によって日本列島には多くの活断層があり、M7’以上の地震がいつでも発生する可能性が強調されるようになった。
第2章 予想される被害
・ 耐震化・不燃化されていない木造の家屋が密集している場合、地震による危険度が高い。災害要因の多い社会、備えのない都市を強い地震や津波が襲えば大きな被害が発生する。1923年の関東大震災では、死者のうち約9割が火災で犠牲になっている。一方、2011年の東日本大震災では死者の9割の方が津波で、1995年阪神淡路大震災では8割5分の方が建物の倒壊や家具の転倒だ。
・ 国は災害対策基本法に基づき、地方公共団体及びその他の公共機関を通じて国土と国民の生命、身体、財産を災害から保護するために、防災に関する基本理念を定め、法制化している。
・ 関東平野のように堆積層が厚い埋立地や河川周辺では地震の揺れは増幅され、大きな振動になる。
・ 東北地方太平洋沖地震では、震源から遠く離れた東京でも、液状化被害や大量の帰宅困難者が発生して、首都圏が大混乱した。大震災による経済への影響は、内閣府によれば首都直下型地震による直接・間接の経済損失は95兆円を超えると見積もられ、半分は被災地の資産等への影響で、半分は生産やサービス低下による全国の経済活動への影響である。
・ 1995年の阪神淡路大震災では、企業の生産能力に余裕があって大幅な物価上昇を引き起こすことはなかったが、首都直下型地震の場合には経済への影響は不明である。復旧に必要な建設業従事者は、1995年がピークの663万人に対し2012年では414万人と約6割に落ち込んでいる現状だ。
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2021年09月03日

「最高の体調を引き出す超肺活」

小林弘幸・末武信宏

「最高の体調を引き出す超肺活」

 アスコム21.3.29

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はじめに
・ 新型コロナの流行によって、ECMOの存在が広く知られるようになった。エクモは、重症患者を救う「最後の切り札」と報じられているが、エクモの役割は単純明快で、体外で肺の機能を人工的に代替し、肺を一時的に休ませて回復や治療の時間を稼ぐことで、通常の治療では絶命しかねない患者の命を救っている。酸素は血液に乗って全身に運ばれていくのだ。
・ 肺の役割は「呼吸」で、肺が酸素を取り込まなければ死んでしまう。酸欠状態になった細胞はガン化の原因ともなり、浅い呼吸は自律神経のバランスを崩す原因だ。ウイルスの病気に負けない強い体をつくるには、「肺の劣化」を防ぐことが必要だ。肺の機能低下は、細胞が壊れたり炎症を起こしている状態だ。細胞は一度壊れると再生できないが、呼吸する力を強化し、血液に取り込む酸素量を増やすことはできる。1回の換気量さえ増やせれば、ガス交換に使われる酸素が増え、血中の酸素濃度も高める。それが「肺活トレーニング」だ。
第1章 超肺活がすべてを解決する
・ 免疫力が高く、身体が健康であれば、ウイルスに感染しても重症化のリスクは極めて低い。呼吸によって取り入れた酸素と栄養が結び付くことによって、初めてエネルギーを生み出せる。
・ 空気は鼻や口から取り込まれ、咽頭と声帯がある喉頭を通過し、気管へと入っていき、喉頭の入り口には喉頭蓋という小さな蓋があり、モノを飲み込む時はこれが自動的に閉じ、食べ物や飲み物が気管に入るのを防ぐ。
 気管は左右に枝分かれして気管支となり、それぞれ左右の肺に繋がる。
気管支はさらに枝分かれし、最終的には直径0.5mmほどの太さになる。
その気管支の先端が「肺胞」で、0.1mm程度で、3〜6億個ある。
・ 成人は、1日に2万リットルの空気を吸い込む。空気の中にはほこりやすす、カビと言った粒子の大きなものから、細菌やウイルスなどの小さな病原体まで、有害な物質が含まれる。新型コロナウイルスは0.05〜0.2㎛なので肺の奥まで到達できる。肺の免疫システムを正常に維持するには、全身の免疫力を高めることは無論のこと、肺そのものの健康を維持することが大切だ。肺を鍛えることで呼吸機能の低下を抑えることができる。
・ 高齢者に増えている誤嚥性肺炎についても、肺の機能が衰えていることが発生の一因である。新型コロナウイルス感染症にはさまざまな部位に後遺症が起こることが指摘され、肺がダメ―ジを受けると言うことは、血液が流れる場所、全身の細胞に影響を与える可能性がある。肺が衰えると「浅い呼吸」になり、自律神経のバランスを崩し、メンタルトラブル、内臓トラブル、血管トラブルを引き起こすリスクを高める。肺胞の数や機能が同じでも、呼吸の質を変えれば、血液に酸素を取り込む量を増やすことができるのだ。
・ 肺そのものには膨らんだりしぼんだりする機能はないので、胸郭を取り巻く様々な「呼吸筋」が動くことで働いている。これらの筋肉が柔軟に動くと、胸郭の可動域が広がり、肺の中にたくさんの空気を入れることができるようになり、取り込み酸素量を増やすことができる。
・ 口呼吸はデメリットが多く、鼻呼吸の方がウイルスに感染しにくい。
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平田 直「首都直下地震」

平田 直「首都直下地震」

岩波新書 2016.2.19

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はじめに
 東京23区を中心とする関東一円は、日本列島の中でも特に揺れやすい地域と言われる。いったいどのような地震が「首都直下型地震」になりうるのか、そこから考えてみたい。
第1章 首都直下型地震とは何か
・ 首都直下型地震は地震学の用語ではない。首都直下型地震とは、東京付近の地下で発生し、首都機能や国民の生命・身体・財産に直接大きな影響を与えうる地震である。
・ 1923年関東大地震も安政江戸地震も、相模トラフからフィリピン海プレ―トが沈み込むことに伴って発生した地震である。
・ 大地震が都市を直撃し大きな被害をもたらすことは、世界の歴史では少なくない。1755年のリスボン地震では海洋商業国ポルトガルの首都リスボン市の建物の約85%が倒壊した。街の中心部は5m幅の地割れができ、移動も困難を極めた。大きな津波が沿岸部を襲った。M8.5〜9.0とみられている。15世紀の大航海時代にヨーロッパの商業活動の中心地になり、交易による富が繁栄を呼び、果てしなく港が拡大した。
 中世の街を無秩序に開発したリスボンの都市構造は、地震、火災、津波に対して極めて脆弱な状態にあった。地震で、大聖堂、オペラ劇場等当時のリスボンを代表する建築物の多くが倒壊し、また倒壊を逃れた建物も火災と津波で焼失した。復興は急速に進められたが、重商主義政策で世界に覇を唱えたポルトガルだが二度とその地位を占めることはなかった。
1908年のイタリアのメッシーナ地震もヨーロッパで最も大きな被害を出した地震である。
・ 江戸時代の末期、日本では各地で大地震が発生し、関東各地でも多くの被害がもたらされた。最大は安政江戸地震で、家屋の倒壊と火災で7000〜1万人が犠牲になっている。当時の江戸100万人に対し現在は1300万人と、超過密で危険度は増している。
・ 1995年兵庫県南部地震は、六甲・淡路島断層帯の約30kmの範囲で活動して発生した。この阪神淡路大震災の教訓を受けて国は様々な制度改革を行い、建築基準法はしばしば改正された。
この地震によって日本列島には多くの活断層があり、M7’以上の地震がいつでも発生する可能性が強調されるようになった。
第2章 予想される被害
・ 耐震化・不燃化されていない木造の家屋が密集している場合、地震による危険度が高い。災害要因の多い社会、備えのない都市を強い地震や津波が襲えば大きな被害が発生する。1923年の関東大震災では、死者のうち約9割が火災で犠牲になっている。一方、2011年の東日本大震災では死者の9割の方が津波で、1995年阪神淡路大震災では8割5分の方が建物の倒壊や家具の転倒だ。
・ 国は災害対策基本法に基づき、地方公共団体及びその他の公共機関を通じて国土と国民の生命、身体、財産を災害から保護するために、防災に関する基本理念を定め、法制化している。
・ 関東平野のように堆積層が厚い埋立地や河川周辺では地震の揺れは増幅され、大きな振動になる。
・ 東北地方太平洋沖地震では、震源から遠く離れた東京でも、液状化被害や大量の帰宅困難者が発生して、首都圏が大混乱した。大震災による経済への影響は、内閣府によれば首都直下型地震による直接・間接の経済損失は95兆円を超えると見積もられ、半分は被災地の資産等への影響で、半分は生産やサービス低下による全国の経済活動への影響である。
・ 1995年の阪神淡路大震災では、企業の生産能力に余裕があって大幅な物価上昇を引き起こすことはなかったが、首都直下型地震の場合には経済への影響は不明である。復旧に必要な建設業従事者は、1995年がピークの663万人に対し2012年では414万人と約6割に落ち込んでいる現状だ。
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2021年08月31日

「デンマーク福祉国家の歴史的変遷とシティズンシップ」

嶋内 健 2010.12

「デンマーク福祉国家の歴史的変遷とシティズンシップ」

――救貧法からアクティベーションまで―- 

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T.はじめに
 デンマークは、1990年代の福祉国家再編によって、経済パフォーマンスを大きく改善し、国際的に大きな関心を集めている。とりわけアクティベーションが注目されている。それは、失業者に所得保障を提供する代わりに職業訓練や教育を義務付け、失業者の雇用確保能力を向上させる政策だ。失業から就労への移行をスムーズにし、失業長期化を予防する点が、EUやOECDから評価されている。
T.デンマーク福祉国家の歴史的変遷
1.救貧法の時代
  デンマーク初の全国的な救貧法は1708年に制定され、貧者を「価値のある貧者」と「価値のない貧者」に選別し、前者には地方政府が財源を拠出し、救貧を行った。しかし、公民権を失い2級市民となり、労役所や救貧院への収容を要請された。
2.萌芽規:1890年代から1920年代
・ 最も早く救貧法から分離されたのが1891年施行の老齢年金と呼ばれる所得補償制度だ。保険料を納める必要のない純粋に公的非拠出型の年金制度としてスタートした。
・ 失業保険制度は1907年に成立し、労働者の共済組合がベースになっている。北欧諸国には伝統的に多くのアソシエーションが存在してきた。デンマークでは、かつてギルドが独占していた時代以降、多数の職業別自助組織が形成され、ギルド制度の廃止後は労働組合がこれを再構築し、自助活動を継続していた。失業保険は、職業に基づいたアソシエーションの、任意のメンバーシップで成り立っていた。失業保険基金はこのアソシエーションが管理し、財源は加入者の保険料、国家の助成金、地方政府の任意助成金から調達された。国家が初めて社会的支出に責任を負ったことから、デンマーク社会福祉国家の出発点といえよう。
3.形成期:1930年代から1950年代
・ 第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期、経済危機が課題となる中で、自由主義的な農民勢力が弱まり、社会民主主義の労働運動が台頭した。デンマークの社会政策に普遍主義という原則が導入された。1932年失業保険基金に対する国家の拠出が著しく増加した。国家は全ての市民の生存のために最低水準の福祉を提供する義務を負うという理念を政策に導入した。
4.黄金期:1950年代から1970年代前半
・ 福祉国家の発展が本格化した1950年代から73年の石油危機までは、歴史上稀にみる経済の好調を維持した時期で、社会福祉政策の黄金期となっていた。
5.危機の時代:1970年代後半から1990年代初め 
・ 1973年の石油危機を契機に慢性的な高失業と低成長経済を経験した。黄金期の社会福祉政策に潜在的問題を含んでいたが、二つの理由で、@景気循環による一時的な不況、A労働市場政策で改革は早急には実施されなかった。労働コストの削減、輸出増加、貿易収支の改善に導いて行った。
6.再編期:1994年以降
・ 最も大きな変化は、アクティベーション政策の本格的な導入で、高い失業率が下がる様子のない中、1994年から実施された。失業給付期間が最大7年間になり、後半3年間は職業訓練や教育の義務を負うことになった。国の社会政策の考えが「所得保障から就労支援」にシフトした。    


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「市川市のクロマツに残る戦争末期の松脂採取跡

市川緑の市民フォーラム

「市川市のクロマツに残る戦争末期の松脂採取跡」

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1.はじめに
・ 市川緑の市民フォーラムは、市川市の自然や生物に関心を持って活動しているが、歴史にも関心を持っている。特に、国府台地区を中心に明治期からしばらくの間、日本陸軍が駐屯していた。その地域を歩くと、「千葉県血清研究所跡地の赤レンガ武器庫」を筆頭に、名残がある。昨年は戦後75年になり、戦争体験者が少なくなり、「戦争を二度としてはならない」とのメッセージを直接聞くことができ難くなっている中、『市川市史・民俗編』の著者米屋陽一氏より、「戦争の傷跡の残るクロマツの保存のために力を貸して欲しい」と要請され、当フォーラム会員で調査し、その結果をまとめた。
・ クロマツは「市の木」で街の景観を形成している。3000年前の縄文海進の時に形成された砂州の土地に、海沿いを好むクロマツが生育していったのだろう。奈良時代の『万葉集』には山部赤人が、真間の手児奈の墓を詠んでいる。江戸時代、幕府により行徳塩田が興隆すると、塩を煮出す燃料として松は使われた。そのクロマツにまつわる市川市の歴史・自然・景観・文化としてクロマツを戦争遺跡として考えていきたい。
2.「松根油・松脂採取」の歴史と実態
・ 松の根から採れる油という意味の「松根油」、幹から採った「松脂」は蒸留してテレピン油と固形成分ロジンに分離できる。テレピン油は溶剤や塗料の原料として、ロジンは塗料、接着剤、紙類の表面加工、電子回路基盤用などの樹脂として用いられる工業原料である。しかし、戦争末期に石油を断たれた日本は「航空機燃料のため」として松根油、松脂の極端な増産を市町村に指示した。
・ 大正から昭和にかけて、多くの農山村の経済が困窮し、国は経済立て直しのために、当時松林が広く分布していたことから、松材伐採の後の切り株から松根油、伐採前の松の幹から松脂を取ることを奨励した。ただ、アメリカから質の良い松脂が輸入されていたことから生産量は伸びなかった。
・ 1931年、満州事変、満州国建設と中国大陸への侵攻を進めた日本は、国際的に孤立したことにより「国内で生産できるものは国内で」という工業原料の国産化政策に力を入れるようになった。1941年になると石油同様アメリカからの松脂輸入が途絶え、各府県に松脂生産を割り当てた。
・ 日本が東南アジア支配を目指し、太平洋戦争を始めた大きな理由は、アメリカなどの石油禁輸策に対抗し、南方の石油を確保することであった。開戦当初は実現するかに見えたが、次第に戦況は悪化し、南方からの石油輸送が困難な状況になっていき、必要な航空機燃料も不足し始めた。
・ そんな中、「松根油から航空機燃料が作れる」と言う情報がもたらされ、軍が飛びつき「これまで工業原料として奨励してきた松根油、松脂を増産すれば戦争を続けられる」とし、1944年次官会議で「松根油等緊急増産措置要綱」を策定し、各都道府県に通知した。
・ 1944年後半から南方からの石油はほぼゼロになったが、国は国内の生産計画を策定し、松根油生産目標を16万klから3倍の46万lに引き揚げた。各町村は割当量確保のために、神社、寺、並木などに手を付け、小中学生、女性が駆り出された。本土決戦に向けて「兵士と一体になって戦う」意識を持たせる政策の一環になって行ったと思われる。(高柳俊暢)
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2021年08月26日

服 部 之 総「 明 治 維 新 」

服 部 之 総「 明 治 維 新 」

朝文社 中学生歴史文庫 2010.4.16

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はしがき
 祖国日本が経験した大きな変動は二つある。好戦的軍国日本から民主主義平和への大転換と明治維新だ。明治維新は、鎖国二百年の徳川封建制度を倒して、「文明開化」の近代日本を作り出した大変革と言われているが、太平洋戦争に導いた軍国日本も、ほかならぬこの明治維新によって土台を創り上げられた。この二つの変動の間には、切り離されない繋がりがある。
1. 百年前の世界
・ アメリカ合衆国の提督ペリーが江戸湾に現れ100年になる。艦隊は1852年11月末に合衆国のノーフォーク軍港を出発して、大西洋を渡ってケープタウン、セイロン、シンガポール、香港から上海に着いたのが翌年5月初めだ。それから琉球の首都那覇に向かい、そこに留まりながら艦隊の一部を小笠原諸島調査に出して、全艦隊を那覇から進めて浦賀に達した。
・ 不思議なのは、英仏ではなく米国が、強力な日本遠征隊をつくって、日本開国の先駆けとなる決意をしたのだ。百年前は、1842年のアヘン戦争と1848年のヨーロッパ革命が浮かび上がる。
アヘン戦争で中国が英に敗北し、鎖国を解いて上海以下の5港を開き、香港を英国に譲渡した。
英国を先頭に始まった産業革命で成長し、英仏米は資本主義の大選手となっていった。
・ 1850年ごろまで米国は中国貿易には太平洋経路ではなく、大西洋航路だった。1846年まで太平洋岸に領土を持っていなかった。この年メキシコと戦って、カリフォルニア州を国土に加え、1848年カリフォルニアに豊富な金鉱が発見され、世界中の人類が押し寄せるようになった。
・ 1848年のヨーロッパ革命は、フランスの「2月革命」から始まり、仏は共和制を取り戻した。
 カール・マルクスが共産党を作ったのもこの年で、オーストリアにも革命がおこった。マルクスの祖国プロシャでは、普通選挙の議会政治を要求する人民運動「三月革命」が、国王の政府との間に激しい市外戦を起こした。プロシャ王国はこの年の40年前から5年ほどの間に、明治維新と同じような改革を行っていた。大革命を起こしたフランスに対抗して、国内に資本主義を育てながらプロシャ王国の富国強兵を図ろうとしたためだが、革命の指導体制が貴族階級と手を結び失敗した。
2.タイクンの国
・ 百年前の日本は、世界でも珍しいほどの典型的な封建制度が行われていた。
日本の封建制度は源頼朝が鎌倉幕府を開いて以来の長い歴史を持ち、その前の時代の奴隷制度時代の名残を留めていた。奴隷の主人は、収穫物を全部自分のものにしたが、奴隷を世話し、農業経営をせねばならなかった。
  徳川時代になると農奴制は影を潜めて、農民は独立して農業を営み、年貢を納めるようになったが、農民は一生農民で武士になることはできなかった。
・ 徳川の末頃は、人口3330万人、農民84%、武士7%で、全国の土地は石
高で3千万石、1/4を徳川が持ち、重要な土地は天領だった。明治維新の時、全国の大名が天皇に譲渡した「藩籍」は、土地人民の封建的な所有権・支配権だ。島津のような外様大名でも井伊のような譜代大名でも自分の領地の中の政治については独立した力を持ち、納税の義務もないが、軍事や外交の上では将軍家に従わなければならなかった。1年おきの参勤交代は軍事動員・演習であり、妻子は江戸に人質として留置された。徳川幕府の仕組みは、戦争が念頭で、親藩や譜代を全国の重要な場所・場所に上手く置き、諸大名の自由な外国との貿易を監視・防ぐためであった。
 天皇は幕府の要求によって、宗教的な行事を行い、年号を決めたりするだけだった。ペリーがやって来て7年後に、時の井伊大老は、天皇の赦しなしに条約に調印したと言う理由で、親藩の水戸の浪士によって暗殺された。幕府の土台にはいつの間にかヒビが入り、弱体化していった。
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西村一郎「広島・被爆ハマユウの祈り」

西村一郎

「広島・被爆ハマユウの祈り」

同時代社20.7.20

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巻頭歌
     太陽と雨水で  白花咲かす  ハマユウよ
            世界で歌え  いのちの祈り     三休
1.被爆ハマユウ
・ ハマユウは関東以西の海岸に自生し、初夏に白い花を咲かせる。和歌では浜木綿と書き、多くの細長い花びらが重なっていることから乱れる男女の心などの形容に用いる。万葉集で柿本人麻呂は、以下のように詠んでいる。「み熊野の 浦の浜木綿 百重なす 心は思えど 直に逢わぬかも」
・ ハマユウは生命力の強い植物で、肥料はいらず雨水と太陽光で十分に育つ。被爆ハマユウを生んだ核兵器は、冷戦時代の1986年に世界中に7万発もあったという。
・ 1945年8月6日に人類の歴史が大きく変わった。日本の軍都であった広島市に住んでいた35
万人の頭上で、世界初の原子爆弾が炸裂し、その年の12月までに子供から老人までの約14万人もが殺された。人体への影響は、熱線、爆風、放射線だ。
・ 爆心地から東へ約2kmに小さな比治山がある。当時この一帯は、陸軍船舶部隊砲兵団の約1500人が駐屯し、現地自活班長の尾島良平さんが花好きで、ここでハマユウを育てていた。戦時で花の栽培を禁止された中で、兵舎の庭であればとハマユウを植え成長を楽しんでいた。比治山も原爆の直撃を受けたが、兵舎の陰にいたために火傷はしなかった。終戦となり、故郷の鎌倉に帰り、元気になった12月に比治山になき戦友を尋ねた。ふと見ると、ガレキの間から緑の葉が出ていた。ダメになったと諦めていたハマユウが新しい葉を必死に伸ばし生きていたのだ。早速土の中から球根を取出し鎌倉に持ち帰り、水をやると段々と元気になり、増えた株を大船観音寺の境内に移植した。
・ 原爆にも負けなかったこのハマユウは、恐ろしい悪魔をも打ち破るほどの勇ましい力を持ってい
るとし、破魔勇と書いて尾島さんは賞賛し、核兵器の脅威がこの世から無くなるまで、反核兵器
のシンボルとして世の中に広げる願いを強めた。1979年に尾島さんが亡くなった後、筆者は被爆ハマユウ・クラブをつくり、反核平和のため被爆ハマユウの普及に努めている。
2.日本の各地へ
・ 被爆ハマユウは最初広島平和記念公園に里帰りした。翌日、被爆ピアノ修復者・矢川ピアノ工房に被爆ハマユウを寄贈した。被爆ピアノと一緒に活動している「生協ひろしま虹のコーラス」は、被爆詩人・峠三吉の一生をテーマに合唱構成劇や、平和・未来・子供たちをテーマに歌ってきた。
・ 東京都内「下町人間の会」が、原爆の火を上野東照宮に灯し続けることを1988年に提唱し、「上野の森に『広島・長崎の火』を永遠に灯す会」が発足し、モニュメントが設置され、その横に被爆ハマユウが植えられ、今でも白い花を咲かせている。夢の島公園の「第五福竜丸展示館」にも被爆ハマユウが植えられている。久保山さんの遺言「原水爆の被害者は私を最後にして欲しい」は、残念ながら未だ達成されていない。第五福竜丸事件は第二次世界大戦後のことで、原爆ではなく水爆で、世界への影響は広島長崎以上だ。
・ 地下鉄住吉駅の近くに東京大空襲・戦災資料センターがある。1945年3月10日の東京大空襲において、わずか1時間半で約10万人が殺された時の焔をイメージした赤茶の壁が特徴的だ。二度と戦争の被害を繰り返すことなく、平和な世界を築くとともに貢献することを願っている。館内には貴重な資料が集められ、全国からの来訪者も多い。
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2021年08月18日

パンデミック・格差・気候危機への市民社会の提言

アジア太平洋資料センター編

「コロナ危機と未来の選択」

パンデミック・格差・気候危機への市民社会の提言

コモンズ 21.4.25

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はじめに
  幸い、日本は他国と比べれば感染者数・死亡者数とも低い水準だった。
しかし、パンデミックはどの国においても、その社会が持つ弱みと問題を容赦なくあぶり出した。医療体制、医療従事者、エッセンシャルワーカーの保護・報酬。科学的知見に基づく政策を政府や議会が行っているか。
 一方、人々にも問題は突き付けられた。暮らしは一変し、テレワークや自粛が強いられた。日本では「新型コロナウイルス感染は自業自得」と答える人の割合が、欧米に比較し10倍も多いという衝撃的なデーターだ。
第1章 私達はどこに立っているのか   1.災いはどこへ濃縮されているのか 藤原辰史
・ 災厄は、すべての人間に平等に害を与えるものではない。第一次世界大戦最終年の1918年の春から20年までの3年間、世界中を席巻したスペイン風邪は、死者4000万〜一億人、世界人口の18〜20人に1人が亡くなり、ダイナミックに歴史を変えた。そのキーワードは「肺」と「胃」だ。
・ 大量殺戮のために毒ガスが使われ、死者を解剖した医師によれば、肺は見たこともないほど傷ついていたという。新型コロナでも「肺にガラスが刺さったような痛み」と言われているのと同様だ。
 また、第一次世界大戦は飢えの戦争、胃袋の危機だった。戦争中に塹壕戦があまりにも激しくなり、膠着状態に陥り、海上封鎖に出て、ドイツ、ハンガリー、ハプスブルク帝国が飢えていった。
・ 日本では、非正規雇用労働者に感染症拡大のしわ寄せが大きい。男性中心社会の暴力性も明らかになった。女性の自殺率は増加し、DVも増加している。ナオミ・クラインのいう「惨事便乗型資本主義」に警戒しなければならない。政府はデジタル化を進め、監視社会を強化しかねない。コロナ禍の中で水害、大地震が起こったら、避難所やトイレ、食事はどうするのか。コロナ禍が長期化し穀物輸出国の生産と流通が滞ったら、日本が農と食を軽視してきたツケが回ってこないだろうか。
・ 歴史の中で参照できる希望は、スペインでは劇的な社会変化を生み出し、ドイツではハプスブルグ家が革命や民衆運動によって倒され、朝鮮の1919年の3・1独立運動も大感染後起こっている。
2.危機増幅のメカニズムから逃れるために   中山智香子
・ 市場や資本主義の下での経済活動は、国家の枠組みに縛られない形でグローバルに広がっていた。人々はいきなり「世界市民」になって無国籍で活動することはできない。企業も同様である。20世紀以降続いてきた米国の世界覇権が衰退する中で、中国とぶつかり、これに世界中が翻弄された。
・ 感染症対策や医療体制が必須なのに、医療を支える公的領域が予算、人員とも大幅削減された。気候危機とそれに伴う自然災害猛威も、公的領域の対策や予算、人員が縮小されていたためだ。
 「危機」とは、人の命そして生活が脅かされている状態だ。100年ほど前のカール・ポランニー
 は、経済を政治や社会との関わりの中でとらえ、危機に着目した。
・ ポランニーは、危機が何であるかを理解すれば、その中に解決策はあるという。人間が、市場に商品として投げ出されることへの抵抗、社会保障制度を求める動き、労働運動・社会運動等を「社会の自己防衛」と呼んだ。社会が人間を商品化することへの違和感、商品になり切れないことで生じる弊害から人間を守ろうとして、“おのずと防衛”するのだと見た。
・ ドイツナチズムは、危機の中で人々に仕事や食べ物を与えることと引き換えに自由を奪った。危機の際に現れる「強い」リーダーには気を付けなければならない。完璧なリーダーなど存在しない。
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2021年08月09日

「『江戸無血開城』の真実」

水野靖夫

「『江戸無血開城』の真実」

星雲社21.6.30

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はじめに
  「江戸無血開城」は、西郷隆盛と勝海舟の江戸での会議で実現したというのが定説になっている。しかし、この「定説」を史実として証明する史料が見当たらないのである。史料とは言い難い勝の談話『氷川清和』や『海舟語録』で、勝が自分一人でやったように自慢し、海舟支持者が尾ひれをつけて誇張したため、いつの間にかそれが「定説」と流布してしまったからである。
本書の目的は史料に基づかないこの「定説」を究明することである。
序章 江戸無血開城の流れ
慶応3年10月14日大政奉還、12月9日王政復古により、政権は徳川から朝廷に戻った。
慶応4年1月3日鳥羽・伏見の戦いが勃発し、徳川方は敗れ、1月7日新政府は徳川慶喜追討令を発した。慶喜は江戸に逃げ帰り、江戸城では和戦論議が沸騰したが、慶喜は上野寛永寺に蟄居謹慎すると決した。新政府軍は慶喜を追討せんと江戸を目指し進軍してきた。徳川方は様々なルートで慶喜恭順の意を伝えるが、新政府軍は駿府に到着した。この慶喜追討軍の攻撃を阻止し、開城までの一連の流れ「駿府談判」「江戸嘆願」「京都朝議」「江戸明渡し」までが「無血開城」である。
一.鉄舟派遣――慶喜が直接命令――
  慶喜の恭順決意後、上層部の様々な使者の嘆願はいずれも功を奏さなかった。そんな中、精鋭隊頭・山岡鉄舟等が派遣された。ことごとく失敗の中で、唯一鉄舟のみが駿府に到着し、大総督府に飛び込み、参謀西郷と直接談判を果たし、「無血開城」の実質的決着をつけた。鉄舟の駿府派遣は勝の指示であると言われるが、誤りである。二人は、鉄舟が駿府に旅立つ直前に初めて会っており、『氷川清和』には「大久保一翁などが山岡は俺を殺す考えだから用心せよと言っている」と書いている。鉄舟は、慶喜の警護をしていた義兄の高橋泥舟に推挙され、慶喜の直接の命令を受けて駿府へ行ったのだ。ほとんどの先学は勝が鉄舟に手紙を渡したと主張するが、鉄舟は否定している。
二.駿河談判――「江戸無血開城」はここで決定――
  参謀西郷との面会を果たした鉄舟は先ず、恭順している者を攻めるのは天皇の軍隊とは言えないと「理」を説いた。納得した西郷は、5ヶ条の降伏条件を示した。@慶喜の備前お預け、A城明渡し、B軍艦引渡し、C兵器引渡し、D城内の家臣の向島移住、E鳥羽・伏見の戦いの責任者の厳罰、F江戸の治安維持は徳川が行う。受け入れるならば、徳川の家名存続は保証するという条件だ。これに対し、鉄舟は西郷と強く交渉し、慶喜の備前お預け以外は吞み、実質決定した。
  明治14年明治維新の勲功調査の際、鉄舟は勝との手柄争いを嫌い、賞勲局に自らの功績の報告をしなかったが、徳川の家名存続は鉄舟のお蔭だと、家宝の名刀「武蔵正宗」を下賜されている。
三.勝海舟の地位・権限――徳川の総責任者にあらず――
  鳥羽・伏見の戦い勃発後、徳川の内情はかなり混乱していた。大政奉還で、徳川家も一大名となり、従来譜代大名が務めていた「老中」がなくなり、旗本による「若年寄」がトップになり、その下に陸軍・海軍・会計・外国の4総裁が設けられた。勝は陸軍総裁に任じられた。その役割は、新政府との和平交渉のネゴシエーターで、徳川の総責任者ではない。
四.パークスの圧力――英国公文書検証 西郷がパークスを利用――
  イギリス公使ハリー・パークスが江戸総攻撃を止めるよう説いたことが、西郷に対する「圧力」となり、「江戸無血開城」の大きな決め手となったと言われ、「パークスの圧力」と呼ばれる。
 パークスは「すでに恭順している慶喜を攻めることは国際世論に反する。戦争が起こることを領事に通知せずその居留地の警護もないのは無政府の国である。」と批判し、内戦は貿易に支障があると懸念していた。これが「江戸嘆願」直前に西郷に伝えられ「圧力」になったと言うのだが、西郷はパークスの発言を「英国が徳川方を援ける」と受け取り、自軍や京都の強硬派説得に利用した。
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