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多摩丘陵にある日野市三井台、ここに住む高齢者のクラブ・三井台南窓会の会員が中心になって作っている団体ブログです。地元の季節毎の写真、南窓会の活動報告、会員の旅行記、俳句、地域の情報など、多様な記事が満載です。
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世界遺産 富岡製糸場をみる(5)  [2014年11月10日(Mon)]
世界遺産 富岡製糸場をみる(5)

富岡製糸女工< 横田(和田) 英>の「富岡日記」

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「富岡日記」は富岡製糸場の世界遺産登録を契機に、「ちくま文庫」から、本年6月第一刷、8月第二刷が復刻出版されました。
著者は安政4年(1857)長野県松代の生まれ、明治6年(1873)数え年17才(満15才)で富岡製糸伝習工女の募集に応じ明治7年、1年3ヶ月の研修を経て故郷の西条村製紙場(後の六工社工場)の技術指導者として赴任した女性です。(当時、政府から廃藩置県で生まれた県令あてに工女募集の要請があり、
要請を受けた県では真剣に対処したものとおもわれます。)


富岡日記は彼女が結婚して和田姓となってから明治40年(1907)に書き始め大正2年(1913)に完結した思い出の日記、つまり回想録で40年も前の体験を克明に書いているのには驚かされます。
彼女の父、横田数馬は松代藩150石の中級武士、母亀代子は儒教の素養深き教育者で、父が工女募集責任者であったことから松代の第一号応募者になりました。
松代の応募工女総数16名は彼女の応募をきっかけに希望者が急増したといいます。
応募に際し父母は彼女に国益を重んじ、家名に背かぬことを申し渡し、彼女も父母の期待に沿うことを誓っています。

2才年上の姉は故郷を出立する妹への餞別として次の句を贈りました

 
 
乱れても 月に昔の影は添う  など忘るなよ しき島の道


当時、県からの募集要綱は13才〜25才のうら若き女性が対象でしたが、多くは旧士族の娘たちで燃えるような目的意識と気概をもった女性たちでした。

故郷を離れ富岡への道中は馬、駕篭、徒歩で3泊4日の旅、晴れて指導者の免許をもって帰国したときは人力車を用いたりしましたが4泊5日の旅となりました。これは褒美に高崎の見物などをしたためです。(わずか一年の歳月のなかで人力車が富岡にも出現したのをみても時代が急ピッチで変化していたのがわかります)

帰郷に際して彼女は尾高製糸場長の指図で行列の先頭人力車で帰還しました。
(彼女は自分より年長者を先頭とするよう懸命に主張しましたが、聞き入れられませんでした。彼女の成績が抜群だったからではないでしょうか)


結婚して和田英となった彼女が50才代になってから回想記を書いたのは病床の母のためという理由ですが、富岡の生活は生涯で最も輝いていた青春だったからではないでしょうか。

日記により、明治初年の電灯・郵便・鉄道・自動車がない時代の我が国がどのような状況であったかがわかります。たとえば夜宿舎でトイレに行くのには
懸行灯に火を灯してゆかねばならず、それは若い工女たちの怪談ばなしにつながりました。
めでたく技術指導者の資格を取得して故郷の新設工場に赴くための道中でも路銀が底をついて安宿にさえ泊まれるか難渋しても、今のように連絡のすべがなかったのです。
和田英は鉱毒事件で有名な足尾銅山で72歳の生涯を閉じました。


富岡日記には「富岡後記」と題して六工社時代の回想も載っています。

斎藤美奈子文芸評論家(58才)の解説によると日清戦争後、冨岡製糸で見られた女工たちの環境は一転して、いわゆる野麦峠に描かれた劣悪な仕事場になっていったということです。
※斎藤美奈子さんは新潟出身、父は物理学者にして宮沢賢治の研究者として知られる斎藤文一新潟大名誉教授


おわり


文責 荒川
Posted by wild river at 09:00
世界遺産 富岡製糸場をみる(4)  [2014年11月09日(Sun)]
世界遺産 富岡製糸場をみる(4)


その他参考


(1) 世界遺産

冨岡製糸場が登録されたのは2014年6月中東カタールの首都ドーハで開催された第38回世界遺産委員会において決まりました。
登録された遺構としてはは富岡のほかに群馬県の伊勢崎市、藤岡市、下仁田町にもありますが、それらについては省かせていただきました。


(2) 富岡製糸場の変遷

明治5年10月(1872)に操業を開始した官営の富岡製糸場は、明治26年9月(1893)勅令により三井銀行部に引き渡され民営化され、明治35年(1902)原合名会社の傘下に入り、昭和14年
(1939)片倉製糸紡績会社と合併しました。
官営操業開始当時、一般職工の年俸は74円なのに対してブリュナの年俸は
9000円、この額は横須賀製鉄所のフランス人技師レオンス・ヴェルニーの
10000円に次ぐ高額ですが、彼らの指導のお蔭で器械装置による生産工場建設の経験が全く無かった日本が僅か1年でそれを手にいれる快挙を成し遂げたといっても過言ではないと思います。
しかし、そうした非常時体制で出発した官営は経営上、長続きせず民営に移行したわけですが、そうした経緯にまつわる秘話については割愛させていただきます。


註:(1) 器械と機械は同じ意味のことばです。
器械は昔のことばで機械は現在使われていることばです。


註:(2) 器械の動力源として、当時は電気が普及していないため「蒸気機関」のエネルギーに 依存し、
富岡製糸場の蒸気機関は「ブリュナ エンジン」と呼ばれました。


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続く


文責 荒川

                                                       
Posted by wild river at 09:00
世界遺産 富岡製糸場をみる(3)  [2014年11月08日(Sat)]
世界遺産 富岡製糸場をみる(3)


※ 富岡製糸場建設ものがたり  


徳川時代300年鎖国の眠りから覚めたばかりの我が国は器械生産をする工場の経験や技術が全く無いのにどのように対処したのでしょうか。
そこには数多くのエピソードがあり、小説家なら必ず筆を執るだろうと思われる物語が山ほども埋もれている感じがします。


(1) 世界でも群を抜く大製糸工場の建設はフランス人の指導で成功しました。

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政府の伊藤博文、大隈重信、民部省の渋沢栄一等々の外国人との幅広い交遊、あるいは人物をみぬく眼力などのお蔭で在留フランス人のブスケ、フランス商社支配人ガイゼンハイメル等を介して慶応3年に来日したフランス貿易会社生糸検査技師 ポール・ブリュナとの間に明治3年10月、建設一任の本契約を結びこれがプロジェクト成功の鍵となりました。
ブリュナは当時32才の独身青年ですが、工場建設・管理,製糸の技術・技能などすべてに精通した優れた人物です。
富岡製糸を指導したフランス人はブリュナを首長に、ほか総勢12人で年齢は15才〜35才うち女性4人(15才〜27才)でした。
異国で工場指導にあたった若いフランス人の指導にかける情熱に感嘆しないわけにはいきません。


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(2)建物の特色は和洋折衷

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ブリュナのもと、バスティアン33才の設計図に基いて日本大工が施行した木骨レンガ造りの和洋折衷、瓦葺屋根、柱や梁はすべて木材、寸法はすべて寸、尺に直し日本古来の方法に従いました。工場内に柱の無い広い空間をつくるためトラス構造という日本にはない技術も使われました。
レンガは韮塚直次郎が現埼玉県深谷市の瓦職人を集め、ブリュナの指導のもと富岡近傍の福島で焼成し、木材は妙義山と中之条から調達、レンガの目地に使用する漆喰は下仁田からと殆ど近傍産で賄いました。
要するに日本古来の伝統技術と西洋技術を見事に融合させることに成功したのでした。


(3)女工募集にまつわるエピソード


指導者たるフランス人が毎夜赤ワインで食事をするのをみて、女性の生血を啜っているという噂がたち,明治5年に始まった女工募集に応じる者がいなくて困ったという話ですが、初代製糸場長の尾高惇忠が娘 勇(ゆう)14才を女工1号 として明治5年就職させたことから、滞りなく女工採用がすすめられました。 
明治6年4月入場の長野県松代出身の女工横田(和田)英の著書富岡日記は貴重な当時の記録となりました。


(4)操糸場などの設備

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ブリュナは明治4年(1871)から5年間の雇用契約を日本政府と交わすや直ちに器械設備などの調達のためフランスへ帰国し、日本女性の座高や、座繰り製糸の動作特徴にあわせた操糸器械を300台特注しました。当時フランスやイタリアの製糸工場の規模は, 操糸器械の設置台数は50台から150台だったそうですから富岡の規模の大きさは世界最大級であったことがわかります。
操糸器械には煮繭用釜(しゃけんようかま)が付属していますから300もの器械搬入は大変だったと思われます。そのうえフランスにはない揚返器(あげかえしき)も付属させました。揚返(あげかえし)とは一たん小枠に巻き取った生糸を大きい枠に巻きなおす作業をいいますが、作業効率化の観点からそのような段取りをしたのでしょう。これだけのことをブリュナは帰国して9か月足らずでやり遂げ、おまけに音楽好きの女性と結婚して本国へ帰国した同年(1871)の12月には日本へ戻っています。
操糸器械のほかに作業の手元を明るくするための大きな鉄枠のついた採光ガラス窓、観音開きドアの蝶番(ちょうつがい)などの細かいものにまで目を配りフランスから取り寄せました。
工場のメーンである操糸場は長さ140m 幅12.3m 高さ12.1mの巨大な柱なしの建物ですが、そのほかの建物も含めて明治4年(1871)に着工して翌明治5年(1872)7月に完成し、10月には操業を開始したとは驚異的なスピードであり日仏合作工事の政府や関係各位の決意や熱意が並々ならぬものだったことがわかります。


続く

文責 荒川
Posted by wild river at 09:00
世界遺産 富岡製糸場をみる(2)  [2014年11月07日(Fri)]
世界遺産 富岡製糸場をみる(2)


※1 なぜ富岡と決めたのだろう。


これには5つの選定理由が挙げられています。


@ 養蚕が盛んで、原料繭が確保できる
A 工場建設用の広い土地が用意できる(富岡代官が所有した広大な官有地)
B 外国人指導の工場建設に住民が同意
C 既存の用水を使うことで製紙に必要な水の確保ができる(水量豊かにして清澄な鏑川かぶらがわ の存在)
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D 燃料の石炭が近くの高崎から採れる


選定は民部省の役人が養蚕の盛んな埼玉・群馬・長野の各地を実地調査して決めましたが、とりわけ渋沢栄一、杉浦譲、尾高惇忠が中心的役割を果たしました。(後述の仏人ブリュナも工場適地としてすでに富岡を選定候補としていました。)
私が感銘したのは、以上3人の元武士は埼玉出身であるにもかかわらず、公平無私な態度に終始して群馬県の富岡を選定したことにあります。
尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は渋沢の義兄で渋沢に思想的な影響を与え、渋沢に論語を教えたことで知られる人物です。尾高が初代の官営冨岡製糸場長に就任しました。


※2 官営模範器械製糸場 のもたらした成果

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明治5年10月(1872)に創業を開始して2年後の明治7年には金沢製糸所(規模100人余)、長野県松代に西条村六工製糸場(規模50人余)が創業を開始し、以降明治12年までに北海道開拓使庁製糸場、富山製糸場、熊本製糸場、長野県小諸の高橋製糸場、長野県諏訪の中山社、福井県の勝山製糸場、兵庫県立模範工場、長野県南佐久の修行社、宮城県の広通社製糸場など各地に器械製糸場が誕生しましたが、これらは富岡製糸場で養成した技術者が核となって完成させた工場です。
器械製糸を創業して僅か1年後の明治6年(1863年6月)オーストリヤのウイーンで開催の世界万国博覧会に出品した「富岡シルク」は2等賞を獲得して、
ヨーロッパ各国の高い評価を受けました。
これをみても、いかに急速に近代的な器械製糸工場を習得したかが理解できます。
こうして、明治末に生糸の生産量・輸出量ともに世界一となり、製糸業が日本工業化の火付け役となりました。

になって考えると私たちは、およそ150年前の維新に際し国の将来を見据えて的確な判断をしたすぐれた指導者を持つことができた幸せを強く感じさせられます。(生糸の輸出で蓄積した外貨が、1905年5月日本海海戦に完勝した日本海軍の軍艦や装備の調達費用に充てられたことは間違いありません)
先にも述べましたが、ヨーロッパに微粒子病が発生してパストゥールが病原菌をみつけるまでにフランス、イタリヤなどの養蚕業が壊滅的な打撃を受けてしまった時期に我が国の器械製糸工場を立ち上げたことも幸運をもたらしました。
                

続く

文責 荒川                      
Posted by wild river at 09:00
2014年三井台南窓会秋の親睦日帰り旅行(2) [2014年11月06日(Thu)]
2014年三井台南窓会秋の親睦日帰り旅行(2)

もみじ湖(箕輪ダム湖

出発後、添乗員さんが「みなさん景色が良くなった所でお声をかけますから、しばらくの間食後のお昼寝をどうぞ!」ということで、皆さん小休止、静かになりました。ふと窓の外に目を移すと、山里の家々にたわわに実った柿が青空に映えて、昔懐かしい風景に心を奪われました。急に道幅が狭くなりゆるいカーブを上りはじめます。大型バスなので大丈夫かとハラハラしました。前方に乗用車が何台か見えます。バスが少し広いところまでバックして乗用車とすれ違います。

一度は観光バスと向い合せになり、添乗員さんの誘導でバック、スリル満点、今にも擦ってしまいそうでしたが、こちらの運転手さんの上手なこと!無事通過です。
やがて右手にもみじ湖が見えました。バスが対向車をやり過ごすため止まると、ガラス越しにシャッターを押します。

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(上4枚宮ア撮)


旅行前にもみじ湖について調べてみました。(箕輪町(まち)のホームぺーじから)

湖畔に一万本のもみじが植栽されている。1992年に完成した高さ72mの重力式コンクリートダム。
箕輪ダム湖(通称もみじ湖)は洪水調整と流水の正常な機能の維持、伊那谷北部の上下水道用として人々の暮らしや自然を守っています。箕輪町では県下でもより早く水源保護条例を制定し水源の保護に努めてきました。透明度の高い清流ダムです。

14時05分頃、紅葉真っ盛りの小さいながら広場に到着。運転手さんに「お疲れさま、ありがとうございました」と言ってバスを下りました。紅葉・黄葉に感動。明日は雨の予報が出ています。本当に天気に恵まれ神様ありがとう!!
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(宮ア撮)
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(宮ア撮)

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遊んでいるときは皆さんうれしそうですねー!

この場所からは湖面を見ることは出来ません。少し高い所に登ってみたいと思いましたが、時間も考えて止めました。道幅が狭いので湖の良く見えそうな場所まで下りるのも危険そうです。車が次々上ってきますので40分ほどの滞在で山を下りました。人家が点在し始めました。沿道のあちらこちらに、赤や黄色のリンゴがなっていて、旅の彩となりました。
伊北ICから15時10分頃中央道にのり、途中諏訪湖サービスエリアでトイレ休憩し、ひたすら勝沼に向かいます。つるべ落としのこの時期は予定のブドウ狩りに間に合うのでしょうかと気になります。

勝沼ブドウ狩り

16時25分、芳玉園というブドウ園に到着。何とか間に合いましたねえ。どうぞと案内され5〜6人ずつテーブルに着きました。お皿に4種類でしたか、ぶどうが載っています。ロザリオビアンコ,甲斐路、ベリーA、甲州ぶどうと説明があり試食しました。
バスの中で添乗員さんが、「勝沼は標高300mにあることがブドウ栽培に適しているようです」と説明してくれました


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芳玉園の方の案内でぶどう園に入りました。入口ではわからなかったのですが、ぶどう棚のまあ広いこと。歩きながら「ぶどうも早生、おくってあるのですか?」とききましたら、「ありますよ、まずタネなしぶどうから始まるんです。最後が甲州ぶどう」とのことでした。ぶどう狩りの心得として、ひと房丸ごと取らないで小さく切り取る事と説明がありました。「洗はなくても大丈夫ですからね。種は食べて」種食べちゃうの?私の聞き違い?
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小さい鋏を借りて美味しそうな甲州ぶどうの房からチョンと切ってひと粒食べてみました。あっさりした甘さと程よい酸味のブドウです。

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甲州ぶどう

太い枝に下がっている房がおいしいなどと話したりして口に運びます。ぶどう棚を見上げて、ひと房ずつ袋をかぶせてあるのを目の当たりにし、この労力は大変なものと実感しました。食べ放題といってもアイスクリーム同様そんなに食べられるものではありません。早々に切り上げて売店でお土産用に購入しました。あら?もう辺りは暗くなっています。17時ですもの。本当に滑り込みセーフのぶどう狩りでした。

バスのお腹にお土産を載せて、ひたすら帰途に着きました。今日の旅は途中渋滞もなく、事故も怪我もなく18時30分鹿島台上でシャトレーゼのお土産をいただいて解散。
旅行担当の皆様ありがとうございました。おかげさまで本当に天候に恵まれ、楽しい一日でした。そして良い思い出が出来ました。安全運転の熟練運転手さん、添乗員さんにお礼を言って家路につきました。

写真:荒川
文責:宮ア

Posted by ミセスミヤ at 09:00
2014年三井台南窓会秋の親睦日帰り旅行(1) [2014年11月05日(Wed)]
2014年三井台南窓会秋の親睦日帰り旅行(1)

風もなく快晴の旅行日10月30日、定刻の7時30分、30人の会員と添乗員(女性)、運転手を乗せたバスは鹿島台上を出発しました。中央高速も渋滞せず快調に走ります。
いつも通り旅行担当の役員、古川さんの挨拶に続き皆川会長の挨拶で旅行開始!!
やがて左手の山あいから雪を載せた富士山が現れました。車中はあちらこちらで楽しげな会話が飛び交っています。談合坂で休憩、そして走ります。会長のお声がかりで乗車時に頂いた歌詞の用紙を手にハーモニカに伴奏で、皆で歌を歌いました。景色を眺めつつ聞く三浦先生の独奏は(ラザーロの村の娘・行進曲・シューベルトの子守唄など)添乗員さんが「風景を引き立たせますね」と、まさにバックミュージック。
正面に南アルプスがドーンと現れました。北岳(3192m)もやがて甲斐駒ケ岳(2967m)もはっきり見えます。須玉ICを出てしばらく走り最初の目的地に9時40分頃着きました。
(なおこの記事の写真は荒川さんに提供していただきました)

シャトレーゼ白州工場見学とアイスの試食

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(インターネットから)


此処は南アルプスの麓の森の中、山梨県北杜市白州(はくしゅう)町にあるアイスクリームやお菓子の工場です。敷地面積は35,000坪。
添乗員さんに従って中に入ります。まず履物をサンダルに履き替えます。サイズ別になっているのが分かるまで、ちょっとまごつきました。

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受付にあったパンフレットの冒頭に

「南アルプスの麓、ここ白州の名水は雑味がないため、素材の旨味を邪魔せず、お菓子をおいしく仕上げることが出来ます。シャトレーゼではお菓子にこの名水を使用し、人の手が加わる部分がほとんどない近代設備の整った衛生的な工場でお菓子作りを行っています」
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見学コースの順路に従って行きます。餡が出来るまでをビデオで説明しています。
あずきバー用のアイスのあずきは、この白州工場のみで作成しています。
ガラス越しに見えるのは機械ばかり、マスクを付け頭から足まで白装束の人が、一人機械を管理しているのが見えます。ガラスに遮られて機械の音は聞こえませんので、見学通路も静かで清潔です。
一度外部デッキに出ました。ふと振り返ると大きなタンクが幾つも見えました。お水でしょうか?
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                       (宮ア撮)


また中の通路に入って進むと天井がガラス張りの明るい大きいホールに着きました。階段を下りると三方がガラス張りになって、工場の内部が見えます。ここからが一番見学しやすいようです。
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通路にあったパネルによると、シャトレーゼは1955年(昭和30年)甲府市に今川焼風のお菓子専門店「甘太郎」を出店し、のちに甲府市に本社を置く食品メーカーとなり、業績を徐々に伸ばし、2002年には北海道豊富にも進出、飲料水やワイン、ケーキ、アイスクリームなどのデザートなどを作っています。近年はワイナリーやリゾート施設なども手掛けていると廊下のパネルで知りました。福岡市博多の工場も稼働し始めたようです。なおシャトレーゼの意味は何?と思いパソコンでしらべてみましたら、城のシャトーとぶどうを意味するレザンを合わせた造語で「ぶどうの城」を意味するとか。

いよいよアイスクリーム食べ放題です!!

ケースごとにチョコ、あずき、きなこetc.のバー。カップ入り、コーンアイスなど選り取り見取り、私はジャージコーンアイスを選びました。良く冷えて歯が立ちません。アイスを齧ったのは初めてでした。まろやかで美味しい!!食べ放題といってもほどほどにしましょうね。
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どれがいい?

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                        (宮ア撮)

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美味しいわね!

此処のお水を飲んでみましたが、とても美味しいと思いました。
アイスを堪能し売店に移動しました。

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お土産を買ったりして10時45分再びバスの人となりました。アイスは食べ放題といっても季節柄と老人会の私たちですからね。でも添乗員さんが「一個の方!ハーイ2個!3個ハーイ」えっ!!5個が最高でした。お腹大丈夫?
この工場見学は最近人気がでて、予約制ですが団体予約は取りにくいそうです。見学は無料のようです。
出発してから再び中央高速を走り右手に諏訪湖を眺め、車は南下して南アルプスの反対側に廻ります。伊那ICを下り、伊那市西箕輪の「みはらしファーム」に12時少し前に到着しました。青く澄んだ空がきれいです。

昼食 レストラン・トマトの木

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レストラン(インターネットより)

此処の食事はバイキング、ドリンク飲み放題ということです。

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(インターネットより)

入口のカボチャの前でちょっと待ちました。明日はハロウインでしたね。
案内された席は明るく見晴らしが良いのですが、お料理の並んでいる場所までちょっと遠いのが難点。それでもお皿に好みのおかずを盛って、賑やかにお食事をすることが出来ました。お味?うーん!程々?じゃないでしょうか。私はお味噌汁が美味しかったです。

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食後、レストランの前にある「みはらしファーム・とれたて市場」に行ってみました。野菜が新鮮でお安いのには驚きました。春菊もキュウリもブドウも。私は重さを考えて野菜は購入しませんでしたが、お多福豆の煮豆を買いましたら、添加物なしでとっても美味しくて、今も大事にいただいています。13時10分にここを出発しました。(つづく)


写真:荒川
文責:宮ア
Posted by ミセスミヤ at 09:00
世界遺産 富岡製糸場をみる(1)  [2014年11月04日(Tue)]
世界遺産 富岡製糸場をみる(1)


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世界遺産 富岡製糸場のある富岡市は私の故郷群馬県 12市の一つですが、前橋市や高崎市と違い、昭和29年の所謂昭和の町村大合併で市制を施行して生まれた町で、鉄道は私鉄の上信電鉄という単線があるのみの地方小市です。
そこに富岡製糸工場があるのは知っていましたが、近くにあっても一度もみたことはなく、世界遺産に登録されても辺鄙な町にあった養蚕と生糸生産の工場に興味をそそられることもなく、関心がありませんでした。
故郷に残る土地の除草に行ったついでの僅かな時間を利用して、雑草退治に協力してもらった娘夫婦をともない登録遺産のメイン富岡製糸場にでかけてみました。
富岡製糸場は見学の人々で大混雑でしたが、正門の正面に聳える赤レンガの東繭倉庫の前庭にはガイドを中心の集団がいくつもできていて説明を熱心に聞いています。
ガイドの案内をうけるには順番を待たなければなりません。余裕がないので
東繭倉庫の入口から入ると暗闇内部のすぐ右手に「富岡製糸場とは」と大書した表示灯が見え、奥にパネルがずらり並んでいます。

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これだ!これだ! これを読めばガイドの代わりになるし、読む人が少ないからゆっくり読めるとばかりに順番に読み始めました。
読み進むにつれ私がここを軽くみて無関心でいたことが誤りだったと気づかされました。
パネルの内容を簡単に整理すると次のようになります。

※何故 過去我が国に類をみない「官営の大製糸工場」を建てたのだろう。

安政5年(1858)徳川幕府はアメリカ、ロシアとの間に<修好通商条約>を結ばされたが、先進国への日本からの輸出は、女性が自宅で行う“座繰製糸”から生産される質にムラのある「生糸と蚕種」に特化され、それ以外には目ぼしい輸出品が見当たらない状況であった。
大量生産のできない生糸、品質にバラ付きの多い生糸は欧米各国から改善をつよくせまられていました。
折しもヨーロッパには微粒子病という蚕の病気が蔓延しフランスやイタリアなどの先進的な養蚕は壊滅的な打撃を受けてしまったのです。(しかし、このことは後から考えれば日本に幸運をもたらしたといえます)
生糸貿易が改善されないまま明治維新を迎えた日本には外国資本の動きも生じましたが、恐らく政府は植民地化を極度に警戒したのではないでしょうか。
事態を重く見た、時の総理大臣伊藤博文、大隈重信参議が協議し明治天皇の裁可を得て明治3年2月(1870)政府資本による「模範器械製糸場」の設立が決議されました。
その狙いは品質の安定した生糸を大量生産し諸外国の要望を一挙に満たすとともに、外貨を蓄積し列強に伍すること。器械製糸技術者を大量に養成し、それを核として全国に器械製糸場を普及することにありました。

続く

文責 荒川                                             
Posted by wild river at 09:00
2014 秋のバラ(神代植物公園)(5)  [2014年11月03日(Mon)]
2014 秋のバラ(神代植物公園)(5)


41 ブルームーン

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42 マチルダ

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43 コロラマ

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44 ローラ‘81

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45 ファルツァーゴールド

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46 クイーン・エリザベス

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47 クリスチャンディオール

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48 サリーホームズ

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49 ブルーバユー

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50 イエロージャイアント

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おわり

文責 荒川
Posted by wild river at 09:00
2014 秋のバラ(神代植物公園)(4)  [2014年11月02日(Sun)]
2014 秋のバラ(神代植物公園)(4)


31 アンソニーメイヤン

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32 チェリッシュ

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33 アメリカズジュニアミス

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34 プリンセスミチコ

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35 黄金

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36 ゴールデンスリッパーズ

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37 ラバグルート

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38 ワイルドファイヤー

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39 ミラベラ

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40 チャ−ルストン

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続く


文責 荒川
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2014 秋のバラ(神代植物公園)(3)  [2014年11月01日(Sat)]
2014 秋のバラ(神代植物公園)(3)


21 ゴールドマリー

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22 バイオレットカーソン

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23 ヒートウエイブ

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24 オレンジバニー

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25 フリ−ジア

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26 フィデリオ

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27 ブルーリバー 

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28 シルバ

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29 モンタナ

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30 銀嶺

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続く

文責 荒川
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