今月の俳句(令和2年9月) [2020年09月21日(Mon)]
今月の俳句(令和二年九月) 兼題は、「秋簾」「秋風鈴」です。簾、風鈴ともに夏の季語ですが、それに秋が着くことにより、盛りを過ぎた寂しさを感じさせます。 「秋風鈴ちりりと鳴るや夜の静寂(しじま)」 皆川 瀧子 風鈴は鎌倉時代に中国から伝わり室町時代には上流社会で流行しました。江戸時代以降は庶民的なものとなりました。南部鉄のくろがねの風鈴、ガラス絵の江戸風鈴が有名です。夏にはその涼やかな音色で感覚的な涼しさを感じさせてくれた風鈴ですが、しまい忘れられた秋の風鈴はもの寂しい感じをもたらします。この句のように静かな夜にかすかに鳴る風鈴は一層もの悲しさや寂しさを感じさせます。 「登り来て峠の茶屋の秋すだれ」 木原 義江 峠とは山の坂路を登りつめた所。山の上りから下りにかかる境をいう、と辞書にありますが峠とは何故か情緒がありますね。息を切らしてやっと辿り着いた峠に茶店が一軒ぽつんとあった、という景が浮かびます。季語により古びて小さな茶店らしいと想像されます。簾(夏の季語)は日除けや開け放した座敷の間仕切りとして用いられます。立秋を過ぎても吊ってある簾を秋簾といいます。一夏を過ぎた簾は色褪せや汚れが目立つようになります。生命力溢れた夏を惜しみ、懐かしむ思いがこめられていますし、時の推移や寂しさ・侘しさをも感じさせる季語です。 「戦災の今無き生家柘榴の実」 皆川 眞孝 75年前、戦災で焼け落ちた作者の生家。幼い頃に刻まれた酷い記憶でしょうか。作者の故郷は浜松市、浜名湖で有名な風光明媚な所ですが戦災に遭われたのですね。柘榴だけが焼け残ったのか、または生家のあった地に今は柘榴の実が熟れている景でしょうか。柘榴の実は熟れるとぱっくり割れて中の種が見えます。大口を開けて笑っている人の口のように見えます。その真っ赤な口は人間の愚かな行為をあざ笑っているようにも見えますし、惨禍を生き延びて次世代の命を脈々と繋いでいく生命力を象徴しているようにも思えます。いろいろ考えさせられる深い味わいの一句。 「駅長が磨く硝子戸秋桜」 小野 洋子 この句の駅は過疎化が進みつつある村の小さな駅でしょうか。駅員も駅長ひとりかもしれません。駅長はその村の出身かもしれません。乗降客もいない昼下がり、駅長自ら駅の硝子戸を磨き上げている景が浮かびます。駅前にはプランターが並び秋桜(コスモス)が咲き乱れています。駅長はこの駅をこよなく愛しているのでしょう。季語から駅長は穏やかで誰からも愛されるお人柄だと想像されます。俳句では「駅長が」の助詞「が」はあまり好まれません。が、この句では駅長を強調する効果で成功しています。 「秋の蚊を手足で払ふ立ち話」 宮ア 和子 よく見かける景で楽しい表現です。こんな場面も句になるんだと感心しました。「秋の蚊」とは秋に活動する蚊のことで立秋の頃から戸外に発生し刺されると痛いヒトスジシマカ、 トウゴウヤブカなどやぶ蚊の仲間と、秋遅く発生し気温が低く活動が鈍るため哀れな羽音をたてて飛ぶ家の中の蚊アカイエカの二通りがあります。暑い頃と違い立ち話は特に女性の立ち話は長くなりがちで人の匂いに蚊が寄ってきます。手や足で蚊を叩き、払いながらそれでも立ち話は続きます。女性のリアルな姿を見事に切り取られました。 「うす雲に透きて機影や秋日和」 藤戸 紘子 暑い夏が過ぎてやっと秋らしくなった穏やかな一日、爆音に空を見上げると、うす雲を透かして機影がぼんやり動いて見えます。そのような景を詠った俳句ですが、高い空、薄い雲、さらにその上の飛行機と、まさに天高き秋を感じさせる爽やかな気持ちの良い句です。(句評:皆川眞孝) 秋簾、秋風鈴の他の句 「茶屋町の灯火洩れくる秋簾」 宮崎 和子 「路地裏の暮らしちらりと秋簾」 小野 洋子 「雨上がり光る雫や秋すだれ」 皆川 瀧子 「別荘の雑草はげし秋簾」 皆川 眞孝 「ガラス絵の秋の風鈴雨の跡」 藤戸 紘子 今月の一句(選と評:木原義江) 「汐の香の残る海女小屋秋風鈴」 小野 洋子 どちらの海岸でしょうか、遠浅の砂地に、よく粗末な小屋を見かけます。海女たちの休憩や食事処でしょうか、その小屋に女性の住まいらしく風鈴が揺れている様を素早く句に読まれた作者の観察力に感心しました。(句評:木原義江) ≪添削教室≫(藤戸紘子) 「来客を送りし宵や虫すだく」 宮崎和子 来客を送りに玄関先に出ると、秋の虫が一斉に鳴いているのに気づいたという秋の宵の景ですが、「送りし」では過去の話になります。ここでは、「見送る」と現在形にした方が、臨場感がでてきます。 添削句 「来客を見送る宵や虫すだく」 宮崎 和子 |
Posted by
皆川眞孝
at 09:00