今月の俳句(令和2年6月) [2020年06月25日(Thu)]
今月の俳句(令和二年六月) 今月の兼題は「雷」です。夏の季語です。傍題として、雷鳴、遠雷、落雷、雷雨などがあります。ただし、稲妻、稲光は秋の季語です。同じ現象なのに、面白いですね。 「雷鳴の轟く夕餉みな無口」 宮ア 和子 雷は理屈を越えた恐怖を人間達に与えるようです。古代人なら天の(神の)怒りと恐れたかもしれませんが、現代人は雷の正体も現象も判っていますからむやみに恐れる必要はないでしょう。がそれでも雷が鳴ると怯えてしまいます。 日頃は賑やかにご家族で囲む食卓が、雷鳴の轟く中ではただ黙々と食すだけという景がありありと浮かびます。 「遠雷や兄弟喧嘩鎮まりぬ」 小野 洋子 男の子同士の喧嘩はさぞ激しいことでしょう。口喧嘩が昂じて殴り合いになることもあるかもしれません。遠くから雷鳴が聞こえてきた瞬間、ぴたりと喧嘩が止んだ。怒りが消えたというより恐れの方が大きかったのでしょう。現代の子供達にも雷への恐怖心がしっかり遺伝子に組み込まれているのかもしれません。 「落雷の二つ続きて深き闇」 皆川 眞孝 皆さんは落雷の瞬間をご覧になったことはありますか。私は子供の頃、一度だけあります。台風襲来の夜、雨戸の節穴(当時は木の雨戸)から大雨と大風と稲光の様子を眺めていた時、轟音と共に向いの空き地の高木の頂にぎざぎざの雷光が走り降りました。あっという間の出来事でした。恐ろしい眺めでした。 恐ろしい落雷が二つとはさぞ恐ろしかったことでしょう。物凄い轟音と雷光の続いた後の深い闇、それは自然の猛威の恐ろしさと人間の非力を感じさせたかもしれません。 「紫陽花の鮮やかさ増し小糠雨」 皆川 瀧子 いま盛りの紫陽花、例年なら大勢の見物人で賑わう高幡不動ですが、コロナ禍のせいで見物人もちらほら。それでも紫陽花は瑞々しい花を咲かせていました。この句は小糠雨に濡れて一層鮮やかな色合いになった紫陽花を詠まれました。小糠雨の優しさ・静かさも紫陽花の佇まいと響き合っています。そもそも紫陽花は陰湿な地を好み、梅雨入りの頃から咲き始め、梅雨明けとともに花期は終わります。鬱陶しい梅雨ですが瑞々しい紫陽花が心を明るくしてくれますね。 「雨降るや軒に寄り添う糸蜻蛉」 木原 義江 糸蜻蛉とは普通のとんぼより小形で身体は細く、静止時には翅を背上に合わせる、儚げな蜻蛉です。雨を避けたのでしょうか、軒に寄り添う二匹の糸蜻蛉を見つけた作者。恋人同士かな、番かななどとか細く、儚げな姿にいろいろ想像を逞しくされたかもしれません。作者の暖かな眼差しを感じます。 「遠雷や検査結果は封のまま」 藤戸 紘子 作者は、健康診断の再検査を受けたのでしょう。その結果が届いたのですが、もしかして悪い報告ではと考えると、開封する勇気が出ずに数日間机の上に放置したままという景です。その時の気持ちは、丁度遠雷を聞いた時と同じです。雷が近づいてくるのか、遠くへ行ってしまうのかわからず、不安を感じます。作者の気持ちにぴったりした季語を選んだ見事な取り合わせの句で、感服しました。(句評:皆川眞孝) 雷を詠んだ上記以外の句 「雨垂れの音を残して雷去りぬ」 宮ア 和子 今月の一句(選と評:小野洋子) 「紙魚跡のくねる和綴じの般若経」 藤戸 紘子 紙魚(しみ)は夏の季語。体長1センチ前後、銀色の鱗に覆われ飛ばないが逃げ足は早い。きらら、雲母虫とも呼ばれる。衣類や和紙の糊を好み、古文書等虫干するのは紙魚に食われないためである。 作者の仏壇の貴重な和綴じの経本が紙魚の餌食になってしまった無念さが句に込められ、梅雨寒の薄暗い今日この頃と紙魚の取り合わせが面白いと思いました。 (句評:小野洋子) 《添削教室》(藤戸紘子) 「小指大まいまい出で来地場野菜」 皆川 眞孝 奥さんが野菜を洗っているときに、生きた小さな蝸牛(まいまい)が出てきたそうです。作者も一緒になって驚いたことでしょう。地場野菜の新鮮さがポイントですね。 「小指大」を「小指ほどの」にした方が優しい句になります。また下五あたりが漢字が続き硬い感じがしますので次のように添削してみました。 添削句 「小指ほどのまいまい出でく地場野菜」 皆川 眞孝 |
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皆川眞孝
at 09:00