南九州旅行 特攻基地「知覧」(1) [2016年01月22日(Fri)]
南九州旅行 特攻基地「知覧」(1) 雨中、地元ガイドの説明を聞きながら鹿児島市街をバスで南九州市の知覧へと向かいました。 途中平城で天守閣を持たない鶴丸城の長い石垣が印象的でした。 石垣には西南戦争当時の官軍の弾痕が生々しく残されています。 ヨーロッパに派遣された若き薩摩武士は16名、それに要する多額の費用は指宿の生んだ海外貿易の先駆者にして大富豪 濱崎太平次が用立てました。 戦争遺跡 神風特攻基地「知覧」 鹿児島県南九州市知覧町の台地は航空機による日本陸軍神風特別攻撃隊最後の基地でした。 太平洋戦争末期、昭和20年3月26日米軍主力が沖縄南西の慶良間諸島に上陸した日から 必死神風攻撃は開始され、本格的には陸海共同で4月6日第一次神風特別攻撃隊の出撃から7月19日の第十一次まで特攻は続けられ、この間における陸軍神風特別攻撃隊の全戦死者数1036名、うち知覧は439名が戦死されました。(以上は平和祈念館の資料によりました) [神風攻撃に参加した基地は九州 (鹿児島・宮崎・熊本。福岡)の12基地、山口県の1基地、沖縄3基地、台湾6基地の22基地] 陸海合計航空神風特別攻撃隊の戦死者数は4000名余(日本本土空襲の米国B-29爆撃機搭乗員の戦死者は約3000名)註)以上のデータはインターネットで閲覧できる知覧関係記事によりました 知覧特攻基地の正門から入って200mほどの所に「知覧特攻平和祈念館」が建てられ、特攻隊員の遺品、手紙、その他関係資料を集めて展示し、後世に史実の全貌を伝えたいとしていますが、今度現地に行ってみて出撃した当時の印象とはほど遠く感じられ、史実の風化を思わないではいられませんでした。 知覧基地の遺跡は殆ど無くなり、現地のガイドは戦争を知らない世代で、説明に耳を傾けても当時の切迫感が伝わってこないのです。滑走路は出撃用と練習用の二本あったそうですが、いずれも姿はなく、練習用の滑走路とおぼしき所は県道に変わり自動車往来の頻繁な道路と化していました。 特攻隊員は出撃用滑走路から真正面の開聞岳に向かって上昇し、そこから一路沖縄へ向かったのでしょう。 続く 文責 荒川 |
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wild river
at 09:00