世界遺産 富岡製糸場をみる(2)
[2014年11月07日(Fri)]
世界遺産 富岡製糸場をみる(2) ※1 なぜ富岡と決めたのだろう。 これには5つの選定理由が挙げられています。 @ 養蚕が盛んで、原料繭が確保できる A 工場建設用の広い土地が用意できる(富岡代官が所有した広大な官有地) B 外国人指導の工場建設に住民が同意 C 既存の用水を使うことで製紙に必要な水の確保ができる(水量豊かにして清澄な鏑川かぶらがわ の存在) D 燃料の石炭が近くの高崎から採れる 選定は民部省の役人が養蚕の盛んな埼玉・群馬・長野の各地を実地調査して決めましたが、とりわけ渋沢栄一、杉浦譲、尾高惇忠が中心的役割を果たしました。(後述の仏人ブリュナも工場適地としてすでに富岡を選定候補としていました。) 私が感銘したのは、以上3人の元武士は埼玉出身であるにもかかわらず、公平無私な態度に終始して群馬県の富岡を選定したことにあります。 尾高惇忠(おだかじゅんちゅう)は渋沢の義兄で渋沢に思想的な影響を与え、渋沢に論語を教えたことで知られる人物です。尾高が初代の官営冨岡製糸場長に就任しました。 ※2 官営模範器械製糸場 のもたらした成果 明治5年10月(1872)に創業を開始して2年後の明治7年には金沢製糸所(規模100人余)、長野県松代に西条村六工製糸場(規模50人余)が創業を開始し、以降明治12年までに北海道開拓使庁製糸場、富山製糸場、熊本製糸場、長野県小諸の高橋製糸場、長野県諏訪の中山社、福井県の勝山製糸場、兵庫県立模範工場、長野県南佐久の修行社、宮城県の広通社製糸場など各地に器械製糸場が誕生しましたが、これらは富岡製糸場で養成した技術者が核となって完成させた工場です。 器械製糸を創業して僅か1年後の明治6年(1863年6月)オーストリヤのウイーンで開催の世界万国博覧会に出品した「富岡シルク」は2等賞を獲得して、 ヨーロッパ各国の高い評価を受けました。 これをみても、いかに急速に近代的な器械製糸工場を習得したかが理解できます。 こうして、明治末に生糸の生産量・輸出量ともに世界一となり、製糸業が日本工業化の火付け役となりました。 今になって考えると私たちは、およそ150年前の維新に際し国の将来を見据えて的確な判断をしたすぐれた指導者を持つことができた幸せを強く感じさせられます。(生糸の輸出で蓄積した外貨が、1905年5月日本海海戦に完勝した日本海軍の軍艦や装備の調達費用に充てられたことは間違いありません) 先にも述べましたが、ヨーロッパに微粒子病が発生してパストゥールが病原菌をみつけるまでにフランス、イタリヤなどの養蚕業が壊滅的な打撃を受けてしまった時期に我が国の器械製糸工場を立ち上げたことも幸運をもたらしました。 続く 文責 荒川 |
Posted by
wild river
at 09:00