岡本仁宏(西宮市在住)
NPO政策研究所監事
関西学院大学名誉教授・大阪ボランティア協会ボランタリズム研究所所長
ジョン・ロック著『統治二論』(1690年版)の表紙
John Locke's Treatises of Government from 1690 edition
最近の政治動向や言説をみると、「国家とは何か」という基本問題への理解が問われていると思う。単純化すると、(1)国家は市民の道具である、(2)国家は共同体であり国民はその一部である、の2つの考え方がある。
「国家」という言葉に「家」が入り、「くに」には「郷土」の意味があるためか、生まれ育った地域や風土、方言を含む日本語、親戚や深い人間関係といった自分のアイデンティティがそこにあり、愛すべき(あるいは憎みつつも切り離せない)自分を形作る言葉として「国家」をイメージする人が多い。富士山が美しいとか味噌汁がうまいとかもその表れだろう。そういう意味での日本という国家を批判されると、まるで自分が批判されているように感じてしまう。サッカーやラグビーの試合で日本チームが負けると落胆するのも、自分(に連なるもの)が敗北するように感じて辛いからだ。
他方、市民が自らが望む生を営み、同じ地域に住む人々とともに生きるために必要な道具として、国家を位置づける考え方もある。これはT・ホッブズやJ・ロック、さらにはJ・ルソーらの近代社会契約論によって切り開かれた国家観である。
日本国憲法の前文には「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」とある。この「信託」は、ロックの『統治二論』に由来し、自分のproperty right (固有に帰属するものに対する権利)を守ろうと争い破滅しないように、一人ひとりが自然権として持つ権利の一部を政治担当者に「信託」するのである。委託者である市民は、役割を果たさない政治担当者(受託者)に対して、信託を終了させる権利(革命権)を持つ。要は、一人ひとりの生命の維持・保全、自己決定に基づく生を全うするための道具として国家はある、ということだ。日本国憲法は、この近代社会契約論の上に立って統治機構を正当化している。
実は、明治国家は郷土の神々を神社合祀によって破壊し、「国語」を作り出すことで多様な地方言語を破壊した。この手法は、諸外国の近代国家形成過程においても見られる。多様な「くに」を破壊した後、見知らぬ人たちと共同体を形成しているというフィクションの上に近代国家は出来ている。
もちろん日本語が使える人々の中では安心して生きられるし、日本という「共同体」があると想定した一体感は、阪神タイガースを応援すること以上に精神の平和に貢献するだろう。
しかし、そのような共同体的国家は、権力者を媒介とし、市民の生を道具や資源として動員・消費することにも躊躇しない。全体があってこそ、その一員の生は意味があると考えるからだ。国家を神格化して実体的な道具以上の価値を持つものと崇(あが)めることは、市民の生が手段化されることである。
近代国家は、伝統的な共同体性を組み換えてフィクションとしての共同体性を構築しつつも、同時に、市民一人ひとりのかけがえのない生から出発し、権力を道具として制限し用いるという国家観の上に成り立つ。本来、アイデンティティは、国旗を強制されてできるものでなく、私たちの生の深い歴史と日々の繋がりによって育まれるものである。
再度、国家についての基本的な視点を確認したい、と痛切に感じる今日この頃である。
注) 「明治39年神社合祀令以降、1898年から1916年の間に境外無格社は大阪府約8割、滋賀県約5割、奈良県約4割、京都府約2割、府県郷村社は大阪府約5割、奈良県、滋賀県、京都府約1割が消失した。」ウィキペディア「神社合祀」2026年8月6日確認