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2024年09月01日

[NPA隔月コラム]異なる時間を生きてきた人々との共生〜 豊中市・沖縄市兄弟都市提携50周年 〜

2024年9月1日
田中 逸郎 NPO政策研究所理事 (豊中市在住)

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▲「豊中まつり・沖縄音舞台」(2017年8月、豊中まつり市民実行委員会提供)



自治体間の交流提携は、姉妹都市と呼ばれることが多い。しかし、豊中市と沖縄市の関係は違う、兄弟都市だ。
 沖縄が本土復帰する以前の1964年、ある会合でコザ市(現・沖縄市)市長と豊中市助役が出会ったのを機に、コザから沖縄戦で亡くなった豊中出身の兵士を供養する「霊石」(形見・遺品のかわりとなる石)が豊中の遺族らに贈られた。返礼として翌65年から、豊中市役所はコザ市の職員を受け入れ、本土復帰に備えて日本の地方自治制度をともに学んできた。延べ120人もの人材育成を支えたその試みは「豊中学校」と名付けられ、いつしかお互いを「ちょうでぇ(兄弟)」と呼び合うようになった。そして1974年、コザ市が美里村と合併して沖縄市となった際に、兄弟都市提携が結ばれた。平和への思いとそれを確かなものにしようとする人材交流から兄弟都市が誕生したのだ。

 提携後の交流の核となっているのが、チャンプルー文化である。コザ市は、沖縄戦を生き延びた民衆、さまざまな出自や困難を抱えた人々が集まる嘉手納基地の門前町だ。価値観も生き方も違う人々の心の拠り所として、古典も民謡も洋楽も取り入れたチャンプルー文化が生まれたという。「多文化共生」の象徴・発露であるチャンプルー文化を担うアーティストたちを、豊中まつりの市民ボランティアが招いたことから、交流が広く市民に、多世代に広がっていった。

 もう一つの交流の柱が平和学習だ。戦争体験の継承をテーマに事業を展開してきた中で感じるのは、本土と沖縄との認識の違いである。豊中を含む本土では、戦争は悲惨な出来事だった、と過去形で語られ「今は平和でよかった」となる。しかし、沖縄では違う。沖縄戦は、体験していない世代も含めて、今の自分につながることとして現在進行形で語られ、過去の出来事と封印してしまうことはできない。

 実は、豊中にも戦争ゆかりのものはある。たとえば大阪国際空港(伊丹空港)は、敗戦後しばらく米軍基地として接収されていた。規模は異なるが、コザと同様に豊中も基地の門前町だったのだ。忘れてしまっている人、知らなかった人も多いだろうが、みんなで考えたい。戦争や基地を過去のことだと他人事にしていいのだろうか。自分たちとは異なる時間を生きてきた人々、生きざるを得ない人々に思いをはせる。そこから共生の途(みち)を拓(ひら)いていく取り組みが始まるのだと思う。違いを知り、認め合いながら共に生きる社会をつくることこそが、交流の意義であり、目標なのだから。
 兄弟都市の源泉(平和と人材交流)に、市民による湧水(多様性と共生)が注ぎ込まれ、兄弟都市提携50周年を迎えた。未来へとつなぐ主体は私たちだ。
posted by NPO政策研究所 at 00:00| Comment(0) | TrackBack(0) | NPAコラム
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