「社会教育の終焉」論争 の忘れ物
2022年9月1日
NPO政策研究所 理事 埜下 昌宏(西宮市在住)
NPAの読書会で選んだテーマ、「社会教育の終焉(以下「終焉論」)」とは、1980年以降、政治学者の松下圭一による社会教育をテーマにした政策提案の論考(1986.8初版)で、それまでの社会教育(成人教育・成人学習)を批判し、代わりにそれを市民文化活動と位置づけるべき、という提案である。
「社会教育の終焉」論争(以下「終焉論争」)とは、この提案に対して、社会教育を担う立場からの反論−論争である。1980年以降10年ほど、社会教育や地方自治の領域において「終焉論」の是非をめぐって論争がまき起こった。「終焉論」の骨格はおおむね以下のとおりである。
a.成熟した成人市民を「オシエソダテル」社会教育は今日(当時)では、終焉する
b.基礎教育を終えた成人市民は行政の社会教育ではなく自由に文化活動を進めるべき
c.公民館(教育委員会)はコミュニティセンター(一般行政)として展開すべき
「終焉論争」は事後約40年を経た今日、はっきりした決着はない。2022年の今、社会教育は終焉していないが、「終焉論」の趣旨は、自治体政策の現場では受け入れられつつある。また近年、社会教育学で「終焉論」を生かそうとする論考が見られるなど、「終焉論」がやや優勢な状況にある。
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実は「終焉論争」では、「社会教育」を成人期に限定したため、「子どもに対する社会教育」が抜けていた。今日の「子どもの社会教育の貧困」状況は、並みいる有識者の「終焉論争」からは予測の外であった。折しも日本が長寿社会を迎える前夜、子どもの問題は放置され続け、今に至る。
元々「社会教育」の用語は「学校教育」「家庭教育」という“場”の分類が起源で、教育時期の分類ではない(ただしこの3つは時系列に並びうる)。だから「社会教育」を成人期に限定した論争自体に無理があった。「子どもに対する社会教育」は、概念としても実態としても成立する。
最近、学校教育で、クラブ活動を地域に委ねる方向性がある。子どもが初めて自分の意志で選ぶ貴重な教育・学習活動である。このアイデアは昔から存在したが、結局は元の木阿弥であった。今日、「学校教員のなり手がなく、学校教育が本当に危ない」と言われて再燃した話題である。
今改めて、社会が子どもを支える「子どもの社会教育」が必要である。これは公民館勤めの身で感じるのだが、残念ながら今、公民館に子どもの問題・課題を一人で背負いこむパワーはない。市民や一般行政の底力を得ながら、今後の「子どもの社会教育」を進めていきたいと思う。