『びりのどたばたコメディショー』夏祭り
8月22日は、岩国子ども劇場の恒例行事「夏祭り」が開催されました。
水西書院という昔の殿様の別荘?だった風情のある和式一軒家が貸館施設になっていて、2階では中高生たちがお化け屋敷を行い、暗くなるのを待つ間、1階では、各ブロックが、カレーやかき氷、炊き込みご飯、フランクフルトなどの食べ物や風船釣り、射的などのゲームを出店して楽しみます。 今回私は、射的についていたのですが、扇風機しかなく、暑いのには参りました。でも子どもたちの、それぞれフィギュア狙いやお菓子狙いなどの思いを秘めて懸命に的を狙う姿が何とも微笑ましい。店番をする子どもたちも頼もしい。 100人くらいは集まったのかな?昔は、子供会でこういう中規模な行事をやってたような気がします。最近やってるところは少なくなってきているのでは。 夏の風物詩です。 205_小さな玉ねぎの生命力の強さ204_秋ナスのはじまり
暑い日が続いていますが、確実に季節は変わりつつあります。
それを感じさせるのが、ナスが元気になってきていることでしょうか。 通常、ナスは5月くらいに苗を植えてけっこうすぐに実がなりますが、だんだん暑くなってくると、休止状態になります。私のはたけの場合は、特に農薬を使わないのでニジュウヤホシテントウなどに葉を食べられて、お休みに入ります。 そういう状態になった時に、枝を刈りこんで、消耗しないようにしておきます。 で、秋になってくるとまた元気になってきて、秋ナスの収穫が始まるというパターンです。 今年は、あまり最初に虫たちに葉を食べられなかったので、枝も刈らずに水だけやっていたら、最近元気になってきて、収穫が始まりました。 ちょっと枝が伸び放題なので、整理してやったほうがよさそうです。 『死ぬな生きろ』
『死ぬな生きろ』(藤原新也著、スイッチ・パブリッシング、2010年)
藤原新也さんの最新刊。 藤原さんが何度も訪れているという四国八十八ヶ所になぞらえて、著者本人の毛筆によるシンプルなタイトル?(メッセージ?)の、次の見開きページ全面に四国を巡る旅すがら撮った写真が来るというとても単純なつくりの本。 少しざらつき感のある紙に印刷されて、光沢のない暗めのトーンの写真は、見る場所(夜の部屋の中とか昼間の明るい光の入る部屋とか)によって雰囲気も変り、シンプルなだけにいろいろイメージを膨らませてくれます。 なぜ、タイトルが「死ぬな生きろ」なのかは、長めのあとがき?の中に書いてありますので、興味のある人は手にとってみてください。 203_ピーマンの立ち枯れ『キャタピラー』ドキュメンタリー映画『祝(ほうり)の島』上映会のご案内
3月に映画『東京原発』を上映するために立ち上げた実行委員会と同じメンバーで、28年間原発反対運動を行っている祝島の日常生活を描いたドキュメンタリー映画『祝(ほうり)の島』の上映会を岩国で行うことになりました。纐纈あや監督の舞台挨拶もあります。
私自身は、この『祝の島』を2回観ましたが、祝島の日々の暮らしが淡々と描かれていて、じんわり懐かしくなるような映画でオススメです。 祝島を題材にしたドキュメンタリー映画はたまたま、同時期に2つ作られていて、もう一つは『ミツバチの羽音と地球の回転』というタイトル。こちらも、違った意味で興味深い映画です。 2010年9月26日(日)14時30分〜 シンフォニア岩国(多目的ホール)にて 前売券1000円 当日券1200円(高校生以下無料) 今回の上映の母体である瀬戸内シネマでは、前後にも近隣で上映会を行います。 9月25日(土)18時30分〜 周南市市民館にて 10月9日(土)@14時30分〜 A18時30分〜 光市民ホール また、瀬戸内シネマでは、今年いっぱい映画『東京原発』の上映権を購入して、山口県内で自主上映をする団体・グループなどを募集しています。詳しくは、「瀬戸内シネマ」で検索すると出てきますのでご覧ください。 202_オクラが好きなオオタバコガの幼虫わくわく科学SUMMERフェスティバル2010
昨日(8月15日)は、お盆時期の日曜日の恒例行事として数年目を迎える、「わくわく科学SUMMERフェスティバル」。
夏休みの行事というのもなかなか決めにくい昨今、お盆の日曜日と決めると逆にスタッフも来る人も、出やすいかもしれないという感じで、なんとか行っています。 今年は、 低学年A≪ドライアイスで遊ぼう≫ 低学年B≪空気と水≫ 中学年C≪にているおやこにていないおやこ≫ 中学年D≪自由電子が見えたなら≫ 高学年E≪お金と社会≫ 高学年F≪三態変化≫ 高学年G≪温度と分子運動≫ の7クラスで総勢100人くらいの参加者でにぎわいました。 9時半から16時半にかけて、途中お昼には1時間半ほど、分子模型や紙ブーメラン、皿回し、恐竜の卵、紋切り絵、キミ子方式の色づくり、もちもちウインナー、折り染め、マジックスクリーン、くるくるシャトル、綿菓子づくり、スライムなどのものづくりを楽しむコーナーをはさんでそれぞれ5時間ほど仮説実験授業の授業書を楽しみます。 私は午前中は、授業の助手、お昼は紙ブーメランの担当をさせてもらいました。 子どもたちは少々元気すぎるくらいですが、めいっぱい楽しんでくれたと思います。 ≪ドライアイスで遊ぼう≫の授業風景。予想に手を挙げてもらっているところ。 ≪三態変化≫の実験をしているところ。 『公共哲学とは何か』
『公共哲学とは何か』(山脇直司著、ちくま新書、2004年)
戦前には日本という国に対して、そして戦後では企業などに対して、個人を犠牲にして公に尽くすという意味の「滅私奉公」が叫ばれ、現代ではその反動として自分ひとりの世界に閉じこもって、他者感覚を喪失したライフスタイルとして「滅公奉私」といわれることもあるが、そういうあり方ではなく、個人を生かしつつ公共性を開花させる「活私開公」という理念が大切だという立場から、最近注目されている「公共哲学」というものを概観しようとしている本。 「公共哲学」という学問が目指すもの、歴史に見る公共哲学に関する知見、日本の近・現代史を公共哲学の視点から見直す、公共哲学の背景となる公共世界を構成する原理、公共哲学と他の学問とのかかわりなどを駆け足で解説し、21世紀にふさわしい公共哲学として、グローバル(全地球的)とローカル(地域の、現場の)の両方の意味を兼ね備えた「グローカル公共哲学」を提唱しています。 理念としては魅力を感じるのですが、新書に収めるにはテーマが大きすぎて、私にはちょっと消化不良でした。 インターネット上で「公共哲学ネットワーク」というものが運営されてることがわかったので、時々チェックしてみようかと思います。 この本の中で教育とのかかわりについても触れられていたのですが、私にとっては私が直接かかわっている仮説実験授業というものに公共哲学を感じます。 仮説実験授業では一つ一つの授業書はとても具体的で誰でもが授業運営をできるようになっているのに、うまく配列された誰でもが考えたくなるような問題をみんなで考えていくことによって、科学上の基本的な概念が身に付き、結果として、他の人との連帯や哲学を感じさせるような感想を子どもたちが書いてくれるからです。 例えば、問題の答えの予想を立てて討論していく中で、他の人が少数派になっても予想を変えずに頑張って、しかも、不正解だったときに、その人を見下したりするのではなく、「間違いだったけど、私だったら、あんなには頑張れないからすごい」といった感想があったり、≪宇宙への道≫という授業書では、「人間ってちっぽけなものだなあ。宇宙とくらべたらすごく小さいもんだな。そんなものが地球の上でけんかして、ばかばかしい」と一方では思い、他方では「そのちっぽけな人間が、そんなに広い宇宙がわかっちゃったんだな。なんて人間はえらいんだろう」しかも「その人間の一人はおれだな、やっぱりおれは利口だな」と感じたりするのですから。 (仮説実験授業に関しては、2008年6月26日の記事『仮説実験授業のABC』で、少しだけ詳しめに紹介しています) きれいなレンズ雲201_カボチャの病気『あなたが総理になって、いったい日本の何が変るの』
『あなたが総理になって、いったい日本の何が変るの』(菅伸子著、幻冬舎新書、2010年7月)
現職の総理大臣のパートナーが、総理大臣のことをこんなに普通に書いてしまっていいのでしょうか、と思いながらも、読みやすいのでついつい読んでしまいました。 市川房枝さんを支援した話や市民活動のこと、夫婦関係の話、子どもの不登校の話など、ごく普通に嫌味なく読める感じで、読んでいるうちに、総理大臣という職も、役割なのだから、個人攻撃している暇があるのだったら、その役割を全うしてもらえるように、それぞれの人がその立場の役割でできることをやりきることが大切なのではないかと、あらためて感じた次第です。 そう思いながら、タイトルを見返すと、みんなに対する問いかけのようにも思えてきます。 『Mad Science 炎と煙と轟音の科学実験54』
『Mad Science 炎と煙と轟音の科学実験54』(テオ・グレイ著、高橋信夫訳、オライリー・ジャパン、2010年、原書は2009年)
「元素コレクター」で自ら集めた元素の美しい写真を使った「世界一美しい周期表」を制作、販売している著者が、自宅などで行った過激な化学・物理実験を、決定的な瞬間をとらえた美しい写真としっかりした事実に基づいたユーモアあふれる文章(実験のレシピ?付き)で紹介した本。 冒頭の実験は、ともに単体ではとても危険なナトリウムと塩素を直接反応させて食塩の煙を発生させ、網に入れたポップコーンをかざして塩味をつける(結局激しい反応で網に火が付き、ポップコーンが落ち、燃える液化ナトリウムがあたりに飛び散るという惨事が起きた)というもの。 実は、この7月末に能登で行われた仮説実験授業研究会の夏の大会で、仮説実験授業研究会の会員でもあるこの本の訳者が、「世界一美しい周期表」のipad版(周期表の単体が動いたり、その元素に関係する情報が見ることができたりしてたのしい)を紹介しながら、本の紹介もしていたので思わず買ってしまったのです。 この著者、本業は別にあって、あくまで趣味でやっているところがすごい(近所が遠く離れているので、大きな音が出ても大丈夫なのだそうです。アメリカらしいと言えばそれまでですが)。危険だけど、ちょっとやってみたくなる実験満載です。 200_スイカ4号『歴史を考えるヒント』
『歴史を考えるヒント』(網野善彦著、新潮選書、2001年)
1997年に新潮社主催で開催された連続講座「歴史の中の言葉」をもとにまとめられたもの。 冒頭部分を抜粋すると、 日常、われわれが何気なく使っている言葉には、実は意外な意味が含まれていることがあります。あるいはまた、われわれの思い込みによって言葉の意味を誤って理解していることもしばしばあるのです。歴史の勉強をしていると、そういうケースに直面することが少なからずあります。 しかも、そうした問題を考えることによって、従来の歴史の見方を修正せざるを得なくなったり、現代に対する理解が変わって、世の中がこれまでと違って見えてくることさえあるのではないかと考えます。(後略) 仮説実験授業研究会の社会の科学の部門において再開した、「社会の科学のことばの事典」の問題意識と共通する部分があると思えるので興味深い。 「日本」という国名が、いつから使われ始めたか、その言葉の意味、そしてその範囲がどのあたりだったかということから紐解いて、各地域や普通の人々の呼び名について、「百姓」という言葉についてや被差別民の呼称について、また、日本では、古くから商業が発達していて、古くから使われていた言葉が、現代の商業用語にも流用されていることについてなど歴史に関する想像力を膨らませてくれる本です。 199_カボチャ1号
今年のカボチャ収穫1号。直径20p超えなのでしっかりした大きさです。同じ時期に収穫できそうなのが数個順調にできています。
昨日の夕飯にラタトゥーユ(今回は、トマト缶をベースに、ニンニク、玉ねぎ、カボチャ、ピーマン、バジル、セロリを使いました。トマト缶とニンニク以外は自家製)を作ろうと思い、それにカボチャを入れたかったので、ちょっと早めかなと思ったのですけれど収穫してみました。 ごらんのとおり、つるにつながっている部分が少しコルク状になりかけていて、本当はもう少しスカスカした感じになったほうがより熟した状態になると思われます。少し水っぽい感じです。好みによりますが、ラタトゥーユには合っていたようで、おいしくいただきました。 『ヒバクシャ 世界の終りに』
『ヒバクシャ 世界の終りに』(2003年、ドキュメンタリー映画、監督:鎌仲ひとみ)
劣化ウラン弾の使用によって白血病やガンになったと疑われるイラクの子どもたちや、アメリカのハンフォードという町(第二次世界大戦中に原子爆弾を作るためのマンハッタン・プロジェクトに使うプルトニウムの精製場所として核施設が作られた町)の風下に入植した農家の人たちにガンが多い話、日本での原爆で爆心地からは少し離れていたり、投下後に爆心地近くに行ったために病気がちになっている人など、いずれも低線量被爆と言われる、因果関係が明確には解明しにくい被害にあっている人たちのことを丹念に取材して編まれた作品。 鎌仲さんの独立第一作目にして、『ヒバクシャ 世界の終りに』『六ヶ所村ラプソディ』『ミツバチの羽音と地球の回転』の三部作の中で、私がまだ観たことのなかった作品。瀬戸内シネマという団体の例会のようなものにお誘いを受けて参加させてもらいました(上映後にビアガーデンで交流会も開かれ、新しい人ともいろいろ話すことができ、有意義な会でした)。 天然ウランから核燃料を精製する段階での廃棄物である劣化ウランは、その密度の高さや、衝突したときに先端が鋭く変形する特性があるため貫通力が強く、また空気中の酸素と結合して燃えるため、弾頭としての特性が高いとして使われることとなり、1991年の湾岸戦争で初めて実戦使用されました。 戦車の装甲板などを貫通するときにとても高温になって、放射性物質が微細な粒子となって空気中に飛び散ることはわかっているのに、いくら弾頭としての特性が高いからと言って、使用するのは問題でしょう。映画の中では、戦場に放置された戦車の残骸などがある場所に、その劣化ウラン弾も放置されていました。湾岸戦争以降、イラクは経済制裁を受けており、抗がん剤が、大量破壊兵器をつくる材料に使われるからと輸入することができずに、子どもたちが死んでいくことが描かれており、考えさせられます。 アメリカのハンフォードでは、それぞれが農業を営む兄弟が登場し、兄は、政府に補償を求める被害者団体として活動しており、弟は、家族の健康は心配だが、核汚染はあくまで関係ないとして、大規模な農場を経営している。弟が「これまでのことは忘れて、これからも農産品を作っていく」という意味のことを言って、それに対して鎌仲さんが「忘れるのは難しくないですか?」と問いかけると「難しいさ」と一言。印象に残る言葉でした。 今や、いろいろな形で世界中にヒバクシャがいることを知らされる映画です。 障がい者の問題が、健常者の問題であるということの具体例
前回の記事のちょっとだけ続きを。
「障がい者の問題というのは、多くは健常者の問題である」とよく言われたりしますが、具体例がないとわかりにくいような気もしますので、私の昔の体験を書いてみます。 都会の街中を車椅子を押して歩いていて、電車に乗ったりすると、場所によってはエレベータなどがなく、困ったりしますが、声を掛けるまでもなく、まわりにいる人がすぐに手伝ってくれて、案外問題なかったりします。 そういう時、経験上、まじめそうなサラリーマンなどといった一般的には立派そうに見える人でなく、茶髪のおにいちゃんや女子高生などが率先して手伝ってくれます(それは別話)。 つまり、例えば、極端な例かもしれませんが、目が見えないとしても、人がそこそこ歩いているところであれば、目的地を言って、通りすがりの同じ方向に行く人に一緒に行ってもらって、それを何度か繰り返せば、そのうちに目的地につけるはずです。特別に、一人の人が連れていかなくったって。それは、理想で、現実は難しいにしても、少なくとも、目的地につけないのは、目が見えない人だけの問題ではないと言えるのではないでしょうか。 人が社会的な動物であって、手助けしあうのが当たり前だとしたら、一人の人だけの問題というのは、実際にはほとんどないのかもしれないと思うのです。
| 次へ
|
にほんブログ村 にほんブログ村
|