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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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109タマネギの草取り

[2010年02月28日(Sun)]
今回のタマネギ。植える2週間くらい前に軽く牛糞堆肥と苦土石灰を混ぜ込んで12月の最初に植えて、まだ一度も肥料もやっていないし、草引きもごく一部しかできていない。

このところ急に暖かくなってきたので、草に負けては大変。ということで、今朝はたけに行ってきました。

5月に収穫できる予定の早生(わせ)のタマネギは、大きくなってきているので、もう負けないかもしれません。でも、少しは草取りしないとね。


でも、それより、優先順位的には、6月上旬に収穫する予定の晩生(おくて)のほうです。


これは、もうしばらくほうっておくと、草もどんどん大きくなってきて、負けちゃうかも。でも、1時間半くらいしかできなかったので、一畝分もできませんでした。

ちなみに、1ヶ月以上前に1度だけ草取りができた部分は、こんな感じになってました。


あと、悩むのは、この段階で肥料をやるかどうかです。暖かくなってきてからやると、育ちすぎて保存性が悪くなるという話もあるし。いっそ、ためしにはたけ作りの時以外は無施肥でやってみるか、若しくは、一部分だけ施肥して、比較実験してみましょうか?

まあ、現実的な問題として、草取りさえできていないということがありつつ。


108紫ブロッコリー?

[2010年02月28日(Sun)]
このところ、忙しくてできてなかったはたけ。今朝久々に、たまった生ごみをコンポストに入れたり、少し離れたみんなのはたけに行って、タマネギの苗の草取りを少しだけしました。

みんなのはたけの端に植えていた、あまり意識せずに買ったブロッコリーの苗。
見事な紫色になってました。


まだ小さいので、もう少し育ったら食べてみようと思います。
何かで見たのですけど、紫色のブロッコリーはゆでると緑色になるとか。
本当でしょうか?




山口ブログ ?

[2010年02月28日(Sun)]
山口ブログ という、山口県に関するとか山口県に住んでいる人のブログを集めているところがあるみたいなので、試しに参加してみることにしました。

記事を読んだ時に、下のバナーをクリックすると、ポイントがついたり、ランキングがついたりするらしいです。ポイントがついて、何かいいことがあるのかどうかわからないのですけど、とりあえず、クリックしてみていただけるとうれしいです。

ただ、一人1日1回分しかカウントされないので、その日の間は、何回もクリックする必要はないようです。

山口ブログのホームページを見てみると、いろんな人がブログをやっているんだなと感心します。もちろん、登録していない人もたくさんいるわけですから、もっともっとたくさんあるんでしょうけど。


和太鼓ユニット「花福」コンサート

[2010年02月28日(Sun)]
岩国子ども劇場の次回例会は、2010年3月20日(土)午後2時開演(開場30分前)。福祉会館にて。


合同例会なので、すべての会員が一緒に観ます。会費は月2500円(4才以上、一世帯何人でも+年間登録料1人200円)。

「花福」は、島根で活躍する太鼓奏者 今福優さんの愛弟子の女性2人(末長愛さんと堂本英里さん)の和太鼓デュオ。


今福優さんと言えば、20歳の時に和太鼓集団「鬼太鼓座」に入座。わずか3ヶ月で、大太鼓の曲目をマスターして海外公演の舞台に立ち、日本全国、世界各国をめぐり、現在は独立して島根を拠点に全国で活躍する和太鼓奏者。

2008年に結成された新ユニット「花福」もそんな師匠に負けないエネルギッシュな舞台を魅せてくれそうです。





里山であそぼ2

[2010年02月28日(Sun)]
行事のお知らせです。


岩国子ども劇場おやじの会企画。2010年3月7日(日)9時半集合。
10時から15時くらいまで、岩国市周東町祖生の田んぼや山であそびます。
参加費は岩国子ども劇場の会員は50円、会員外は200円。

田んぼの端に焚き火をするところがあるので、そこで好きなものを焼いたり、田んぼを走り回ったり、近くの山で遊んだり、思い思いにのんびりすごせます。

連絡先 岩国子ども劇場事務局0827-41-1715(ファックスも、月水金の10〜15時)


トヨタの問題は、ロボットと人間の共存の問題でもある

[2010年02月27日(Sat)]
ロボットの話が出てきたので、少し進めてみると、最近の家電製品などにはコンピュータ制御のものが増えてきて(というか普通になってきて)いて、鉄腕アトムのように人型のロボットではないものの、こういうのもある意味ロボットということができると思います(ロボット家電と言ったりします)。

ハイブリッドカーも、エンジンとモーターを切り替えるシステムをコンピューターで制御しているという意味では、ロボットと言えます。その制御のやり方には、いろいろ選択肢が考えられて、しかし、その制御の仕方に万人がなじめるかどうかは、わかりません。

そこで、ハイブリッドカーは、特殊な車なので、なじめない人は乗らないほうがいいかも知れません。という宣伝の仕方もありだったのかも、と私などは思ったりします。

何と言っても、他の家電製品との大きく違って、人の命を危険にさらす可能性が高いわけですから。

そのうちに制御システムが発達して、乗る人の癖に合わせて制御の仕方を変えるようになるかもしれません。しかし、そうやって複雑なシステムになるほど、誤作動の危険が伴いますし、人間ほど複雑なシステムはなかなかないので、すべての人間に合わせることができるシステムを作ることは、人間にはきっと無理でしょう。

昔ながらの車は、比較的シンプルなシステムで、人間が、そのシステムにあわせて運転することになるわけで、それでうまい下手がでてくるわけですけども、少なくとも、事故が起こったばあいなどは運転する人の責任、と言える訳ですが、複雑なシステムになると、それが人の責任なのか、システムの責任なのか(それともシステムの誤作動なのか)、どれかわからなくなってしまう。

これまでは、自然という複雑なシステムと人間という複雑なシステムの関係だったのが、その間に、人間が創った少し複雑なシステムが介在することによって、複雑な3つのシステムの関係になって、無限に複雑な関係になる、というか、事故が起こったときに、それは誰の責任かというのがあいまいになってしまう。

そういうのを、ロボットと人間の共存の問題と言うことができ、(人間が創った複雑なシステムである)原子力発電所の問題の中にも、その問題があります。

どんどん複雑化する社会の中で、これは避けて通ることのできない問題ではあります。
少なくとも、一般の人はわからないと避けるのでなく、また、システムを使う側は、自分の都合のよい情報を流すだけでなく、できるだけオープンにいろんな立場から話していかないといけないのではないかと思います。人の生命に関わる問題であればあるほど。

ロボット工学三原則が考えさせてくれること

[2010年02月26日(Fri)]
アイザック・アシモフさんという科学者であり作家であった人が、SF雑誌編集者のジョン・W・キャンベル Jrさんと共同で作り上げたロボットを製作するにあたって守るべき原則。ちなみに、中身は以下のとおり。

第一条 ロボットは人間に危害を加えてはならない。また、その危険を看過することによって、人間に危害を及ぼしてはならない。

第二条 ロボットは人間にあたえられた命令に服従しなければならない。ただし、あたえられた命令が、第一条に反する場合は、この限りでない。

第三条 ロボットは、前掲第一条および第二条に反するおそれのないかぎり、自己をまもらなければならない。


この原則の元に作られたロボットが、当初は人間に似せて作られ、人間社会の中にあって、一見三原則に反するような行動を起こしていくさまざまな話を、本当にあったことのように歴史書を読むような感覚で読み進められるSFミステリーを、学生の頃、夢中になって読んでいたものです。


上質のSFは、未来の情景(アイザック・アシモフさんの作品では、例えばロボットのいる情景)の中で、結局は、人間って何だろう、ということを考えさせてくれます。

そんなアシモフさんの作品の中に「証拠」という小品があって、ある自治体の市長選挙に立候補したある人物が、他の候補に反対する勢力が立てたロボットではないかという疑惑が持たれ、そのことを確かめることを依頼された人物が、証拠をつかもうといろいろ考えていくのですが、結局、ロボットであるという確証は得ることができない、というか、ロボット工学三原則に従って行動すれば、それは、人間であろうとなかろうと、市長として適任なのかもしれない、と思わせてしまうのです。

何が言いたかったかというと、外国人参政権の問題です。基本は、そこに住んでいる人みんなが住みよい地域になっていくためには、いろんな人が知恵をだしていかなくてはならないのですから、誰が関わるにしても、よくまわっていくことが大切で、特定の人だけそこから排除するのは変ではないか?というだけの話なのです。

ちょっと、極端な例だったでしょうか?

宇宙飛行士もツイーター?

[2010年02月26日(Fri)]
知り合いが、日本人女性として2番目にの宇宙へ行く山崎直子さんへの寄せ書きをするために江戸に行くということで、職場でも寄せ書きをすることになり、にわかに宇宙飛行士のことを調べたら、国際宇宙ステーション(ISS)内の特別製ソフトウェアがこの1月にアップデートされて、宇宙飛行士が、直接インターネットに接続できるようになって、この1月22日には、はやりのTwitterでの最初の発言に成功したようです(その言葉もインターネットで見ることができます)。

ということは、休憩時間に、何気に地上の相棒とメールで会話したりできるってことですよね。何だかすごい。通販なんかもできるわけでしょうけど、うっかり受け取り先を国際宇宙ステーションにしてしまったら、宅配業者は大変です。通販の契約書の中に「申し訳ありませんが、ISSへのお届けはできかねますので、地表上のいずれかの地点でお願いします」と書かれるようになるでしょうか?

今まで、私は正直言って、ツイーターには興味がなかったのですけど、いきなり、登録してしまいました。今、ISSに滞在中の宇宙飛行士野口さんも、しっかりツイーターしてるのです。宇宙からのつぶやきが、リアルタイムで読めるって不思議。

山崎さんもきっと、地上400キロの上空からツイーターをすると思いますので、楽しみ(調べてみると、地上からすでにツイーターしてるのでした)。

「お雛様」と「人形」展

[2010年02月26日(Fri)]
岩国錦帯橋の近くの古いまち中で、「お雛様」と「人形」展が開催中。


私は、たまたま通りかかって、おや、と思って見てみました。

こういう企画は、古い町並みの残っているところで最近行われているように思います。そんなに派手なものではないですが、こういうのって、なかなか楽しい。



観光客対象というよりも、このまちに住んでいる人や近くの人が楽しんで、たまたま来ている観光客も、楽しめた。くらいのスタンスで、いいのではないかと思ったりする。



ちょっと部屋の上を見上げると、昔子ども部屋として使われていたのでしょうか、雑誌から取ったのか往年のスターの絵が貼ってあったりして。


3月31日まで、開催中のようです。ふらっと古い町並みを散歩がてら楽しんではいかがでしょうか?

ディベートの国アメリカのいじめ?

[2010年02月25日(Thu)]
ひところほどは聞かなくなりましたけど、学校教育の中で、ディベートを取り入れることが行われていましたが、私は、あれはどうもいい結果を生まないのではないか、と思っています。

ディベートは、説得術の練習のようなものなので、終わった後、あの質問はよかったね、とか、あの切り抜け方はよかったよ、とか振り返って反省するのが正しいわけですが、そういうものだというのをちゃんと説明できる先生が指導しないと、結果として生徒たちは、「結局世の中、弁が立つものが勝つんだね」ということを学んでしまうことになってしまうと思うからです。

ディベートを学校教育などでする場合の工夫としては、だれも答えを知っていないけど、実ははっきりした答えがわかっているような問題でやると、何度かやっているうちに、例えば、すごくみんなが説得されたのに、結果は正しくなかったというような場合が出てきて、ただ、弁が立つだけではだめなんだということがわかる(議論は尽くすが、結果には謙虚になるべき)。そういう経験こそが大切なのです(このブログの、カテゴリーの中にある、仮説実験授業にはそういう面があって、議論のための議論にならないところがいいのです)。

お互いの議論を尽くす、という習慣の少ない日本人が、アメリカに行って、百戦錬磨の人たちからの質問攻めにあうのは、さぞかしつらいことだろうと思います。

今回の、ある自動車メーカーの話は、とりあえず主張して交渉で譲歩を勝ち取る的な文化のアメリカなやり方に、適切に対応できるかどうか、という問題なのだと思います。

ちょっと、このところ時事ネタに突っ込みすぎ?

日本が中東地域でできることをやってほしい

[2010年02月25日(Thu)]
今朝の朝刊の、「ウラン転換施設を公開 イラン_日本メディアに限定」という見出しの小さな記事に目が止まりました。

「テロ支援国家」として欧米の制裁が強まる中、イランが日本メディアに限定して、ウラン転換施設などを公開してくれたようです。

日本メディアに限定して公開してくれたことについて、「イランに利用されるな!」とか言う人もいることと思いますが、日米同盟の元、私たちの日ごろの気分としては、欧米の一員という雰囲気があるようにも感じますけれども、イランなど中東の人にとっては、やはり、日本はアジアの一国(そして、経済大国)であるということは、忘れてはいけないと思います。

悪く言えば、日本を利用しようとしているとも考えられるのですが、そういうことも知った上で、この機会を逆に利用して、中東地域の平和のために日本がイニシアティブを取って、イランから譲歩を引き出すくらいになってほしいと思います(そのあたりのことは2日前の『「ガザ戦争」に思う』の記事でも少し書きました)。

こちらから積極的に投げかけなくても、こうやって、イランのほうからチャンスを与えてくれているわけですから。

夜間の混声合唱のグループを立ち上げてほしいという希望を受けて

[2010年02月25日(Thu)]
知り合いで長年女声合唱のお世話をしていた人が、何年か前から夜間の練習ができる合唱の世話をして欲しいと頼まれて、会場探しなどをしているということで、時々私のところに話をしに来られます。

ご本人は、自分も合唱をしておられて、お世話もしていたので、様子はわかっているのですけど、それだけに逆にわかりすぎていて、例えば、当地では女声合唱(いわゆるママさんコーラス)はたくさんあるのですけど、混声合唱は1つしかなく、そこは長くやっていて技量的にもうまくなっているので、(悪い意味ではなく)初心者は入りにくい部分もあったりするけど、一応、その団体にも新たな団体を作ろうと思っていることを伝えたり、指導者を誰にするかとか、いざ、はじめてみて本当に人が集まるだろうか、など、いろいろと気を使われているようで、そういうことについて、話しを聞いてあげる人が必要なのかな、という雰囲気だったので、私としては話をじっくりうかがって、きっと、そういうのをはじめると喜んでくれる人がいると思うことや、会場は、公民館などの公共的な施設に限らず、個人でも、小規模なコンサートができるようなピアノ付きの家を定年退職を機に作った人もいる(そういうのって、これから増えてくると思います)ので、そういうところでも、相談すれば使わせてくれるのでは、とか、私の思うことや知っていることをお話さえていただいています(逆に言うと、私のすることは何もない)。それでも、お話した後は、満足そうに「また来ますね」といって帰っていかれて、来られるたびに、ほんの少しずつ話が進んでいるようです。

こういうことって、たくさんあると思うのです。ちょっとじっくり話を聞いて、ちょっと後押しできるような思い付きを話させていただくだけで、進む話が。そういうのって、お金の話とか、人的な問題とかではないんですよね。何か頑張ってみようかと思うときに、話を聞いてくれる人がいるだけで、支えになることが。それは、お互い様なので、私も何かのときに、支えてもらうこともあったりするんですよね。

でも、本当は、そういうお世話をする人が、もう少し増える(役回りとしていろんな人が少しずつやる)と、もっといろいろな面でまちは楽しくなるのになあと、思うことがよくあります。

2度目の出会いが永遠の別れ―杉本春生さんのこと

[2010年02月24日(Wed)]
直前の記事に書いた、竹内敏晴さんとは、直接お会いしたことはありません。しかし、私にとっては、師と呼べる人です。そして、2冊目の本に出会ったときには、もう直接お会いすることはできなくなっていました。

そのことで思い出すのは、杉本春生さんという詩人です。

20数年前、たまたま仕事でお会いしたとき、あまりに感銘を受けて、日ごろ疑問に思っていることなど、いろいろ話をさせていただき、きっとまたお話をうかがいに行こうと思いながら、なかなかきかっけがつかめないままの数年後、次にお会いしたのは、連れ合いの方から、杉本さんのお葬式の様子を写真で記録に撮って欲しいと頼まれたときだったのです。

それでも、いまだに、杉本さんのことは時折思い起こします。
お会いしたあとに、杉本さんから、人づてにいただいたサイン本は、いまだに読めずにいます。読もうと思うときが来るまで、きっとしばらくはそのまま。


『「出会う」ということ』

[2010年02月24日(Wed)]
『「出会う」ということ』(竹内敏晴著、藤原書店、2009年10月)


竹内敏晴さんが昨年(2009年9月)亡くなったことは、ニュースか何かで知ったような気がします。そして、最近書評で、この本が竹内さんの最後の本になったと書いてあったので、これは買わなきゃ、ということで。

以前に、このブログで紹介した『ミラーニューロンの発見』とあわせて読むと面白いと感じました。というのも、『ミラーニューロンの発見』は、科学者の視点で、『「出会う」ということ』は、40歳までことばがちゃんとしゃべれなかったという竹内さんが、その実体験の中から、ともに人と人がつながること、出会うこと、について語っているからです。

それは、変な喩えかもしれませんが、右翼と左翼(今は、こんなことはあまり言わなくなりました)も突き詰めていくと似通ってくるというか、もしかしたら、アプローチが違うだけなのかもしれないと思うことがあるのに似ているかも。
困ってしまうのは、中途半端な人が、声高に主張する場合です。そういうのって、自説に酔っていたり、誰かの説に心酔していたり、いずれにしても、あまり声高に、あまりにも明確に言うのは怪しいと思ったほうがいいと思います。きちんと物事を考えている人は、物腰が柔らかくて、激しく主張したりしないものです。私も、たまに熱してしまうことがあるので、自戒をこめて。

閑話休題。
竹内さんの著書としては、学生のころ出会った『ことばが劈かれるとき』(竹内敏晴著、思想の科学社、1975年)が忘れられません。多分そのころ、ことばとからだというものについて考えていて、そのことをより深く考えさせてくれる本だったように思います。

『「出会う」ということ』には、その本にも出ていた、「出会いのレッスン」について、具体的な例が書いてありますが、受けたこともない「出会いのレッスン」について、学生のころに比べて格段に具体的なイメージを伴って読み進めることができます。少しは、私も成長したということでしょうか?
「出会いのレッスン」は2人の人が、部屋のあっちとこっち、それぞれ反対側の壁に向かって立って、「どうぞ」という合図で、振り向いて、あとはそれぞれが感じるままに動くという単純なレッスンです。2人の組み合わせによって、いろんな出会い方があるそうです。

『ミラーニューロンの発見』を読んだときにも思ったのですけど、脳の仕組みが解明されてくると、その脳を効率よく刺激する方法やテクニックを考える人が出てきそうな気がします。でも、そうじゃないんですよね。大事なのは、「じか」な体験です。「じか」にさまざまな人やものに「出会」い、それを共有しあうことによって、人と人がつながっていき、また新たな「出会い」が生まれる。その循環なので、どこかを取り出して、効率よくやっていくというようなものとは、無縁なのではないかと思います。


『物語の役割』

[2010年02月23日(Tue)]
『物語の役割』(小川洋子著、ちくまプリマー新書、2007年2月)


帯にある「人間は、なぜ物語を必要とするのか?」ということに関心があります。

物語というと、ギリシャ神話、聖書、日本書紀、など要は、世界の解釈、という意味での大きな物語が思い浮かんだりしますけど、小さな物語もやはり、私たちには大切なものではないかと思うので、物語を実際に生み出している人が、どんなことを考えているのかというのが興味があって、手にとってみました。

現場の人には、現場の知恵というものがあって、楽しいのですが、現場の人が必ずしも的確にそのことについて書けるかというとそうとも限らなくて、例えば最近でいうと「のだめカンタービレ」は、音楽のことをもともとあまり知らなかった漫画家だからこそ、あれだけ面白く描けたという面があったりするようなことがありますので、はたして、どうだろう。


ということで、読んでみました。この本の著者は、以前の記事で一言だけ紹介した映画『博士の愛した数式』(この映画、好きです)の原作者だったのですね。

この本、私の疑問には答えてはくれませんけど、気軽に読めて面白いです。
小川さんが物語を生み出していく謎解き本なのですね。

そんな中、「小説は過去を表現するもの」という表現(小見出し)が気に入りました。というか、私は写真が撮るのも観るのも好きで、どの写真も「どこかであったことの記録である」と思っているのと通じるなあと思ったからです。まあ、表現って、そういうことなのかなとも思うのですけど。

「ガザ戦争」に思うー米軍再編とのからみで

[2010年02月23日(Tue)]
通勤途上、今朝の、NHKラジオの「時の話題」で、1年前にパレスチナのガザ地区で戦われた「ガザ戦争」のことが話されていました。

話に出てきた数字にあらためて驚きます。
パレスチナ側の死者1400人[うち民間人800人(この数字に関しては、諸説あるようです)]
イスラエル側の死者13人(うち民間人3人)

新世紀になってからの対テロ戦争の典型といわれる「ガザ戦争」の数字で見る結果。しかし、これだけの犠牲を出して、次世代に恨みを残したにもかかわらず、誰も勝者になっていない(数の上では、イスラエル側の圧倒的な勝利なのかもしれませんが)。

東西冷戦が終わって、対テロ対策の意味合いが強まっている世界(アメリカ?)の安全保障体制の流れで、いつでもどこでも紛争地帯に対応できるようにするための体制作りの一環としてある米軍再編。

その再編が目指している戦争の典型が「ガザ戦争」だとすると、再編を支援するということは、このように圧倒的な軍事力によって、多くの民間人まで巻き込んでしまう戦争を支援ということになるのではないでしょうか?

世界が不安定な状態になっていて、その安定維持のために日本でも米軍のプレゼンスが大切かもしれないということは、大枠では理解できないことはない。

しかし、上に書いたような疑問について、例えば、先日行われた「米軍再編と岩国」を考えるフォーラムで説明した防衛省・井上地方協力局長の言葉では、その不安は、払拭されません。

明治維新以来、ヨーロッパ列強の侵略をしのいで、驚異的な発展を遂げた日本が、例えば第二次世界大戦の末期に、カミカゼ特攻隊の貴重な若者の死によって、物質的に圧倒的な米軍に対して戦ったことを、私たちは忘れそうになっていますが、アラブの人たちの中には、そのことによって、日本に親近感を抱いている人もいると聞いたことがあります(悲しいことですが、今の爆弾テロは、確かにそのことを髣髴とさせます)。

今の世界の状況に対して、日本は、もっと別の価値観によって、少なくともイスラエルの地域にとっては比較的中立の立場に立てているかもしれないというスタンスで持って、国際交渉の場で活躍できるのではないか?再編についても、そういう立場で少しでも全体的に縮小する方向で見直しをする提案はできないのか?

今、民主党政権の中で危機に立たされている官僚の人たちは、きっと賢いのだから、生き残りをかけて(自分たちの価値をアピールするためにも)、そういうことに役立てる日本のための下準備的な活躍をしてほしいと思います(今まで、ちゃっかり自分たちの再就職先を作りながら、あれだけ複雑な利害関係をうまく調整する仕組みを作り上げてきた能力からすれば、本当に日本が世界に貢献できる可能性を秘めたやりがいのある仕事ですから、その能力の発揮の場としては最高ではないでしょうか?)。

外国人参政権について

[2010年02月23日(Tue)]
外国人参政権について、法案が提出されそうだということで、話題になっているようです。

私の基本的スタンスとしては、参政権があったほうがいいのではないか、ということです。諸外国との比較で、そんな国はない、とかいう意見があるようですけど、そういう外的な要因に左右されるのでなく、もう少し基本的なところで考えるべき問題だと感じます。

これは、ある地域に住んでいる人に、その地域をうまく回していくことに参加してもらえるかどうかという問題だと思うからです。

その地域に住んでいて、その地域をうまく回していくためのお金(税金のことです)を支払っていて(場合によっては、その人の経済的な状況によって支払わなくてもいい場合もあるでしょうけど)、その地域をうまく回していくための仕組み(地方自治体のことです)に参加できないのは、ちょっと変じゃないでしょうか?

そこで、国の存続の問題をうんぬんする議論があるようですけど、そんな大げさな問題とは、私には思われません。

もしかしたら、その自治体が特定の国の人に乗っ取られるとかを心配してのことなのでしょうか?例えば、その自治体に、特定の国の人がどんどん増えていって、大多数を占めるようになったとして、(法律の解釈の問題として、国家公務員は日本国籍を持っている必要があるので、難しいのですけど、地方自治体では解釈が変わりつつあって外国人がその職に就けるようになってきているようですが)その自治体の職員やその自治体の議員の大多数が、特定の国の人になったとして、何か問題になるでしょうか?その自治体運営がおかしな方向(例えば、特定の国の人に対して差別的な規則を作ったり)に行きそうになったら、それは、そこに住んでいる住民がちゃんとすべきことで、周りの人がとやかく言う問題ではないですよね。そこに住んでいる人の基本的な人権が保障されるのなら。

それよりは、もし、特定の自治体に、特定の国の人が極端に集まるようなら、それは、その周りの人が特別にその国の人を排除したとか、そういう別の問題があると考えられますので、そのほうが問題ではないでしょうか?

要は、その地域に住んでいる人が、その地域をいかに住みよい社会にしていくかということなのでしょうから。

そして、私は、一時的に住んでいるとか、永住する予定であるかとか、というのは二の次の問題ではないかと思います。だって、日本人だって、そこの地域に一時的に住んでいるか、永住するかなんて、(本人にだって)わからないことでしょうから。

そこに住んでいる住民が住みよい社会をいかに作っていくかという問題と、国籍の問題というものを混同している議論のように思えてなりません。

『日本辺境論』

[2010年02月22日(Mon)]
『日本辺境論』(内田樹著、新潮新書、2009年11月)


内田さん自身が、冒頭に、この本の主張の要約として、50年以上も前に書かれた梅棹忠夫さんの『文明の生態史観』からの引用をしています。

「日本人にも自尊心はあるけれど、その反面、ある種の文化的劣等感がつねにつきまとっている。それは、現に保有している文化水準の客観的な評価とは無関係に、なんとなく国民全体の心理を支配している、一種のかげのようなものだ、本当の文化は、どこかほかのところでつくられるものであって、自分のところのは、なんとなくおとっているという意識である。
 おそらくこれは、はじめから自分自身を中心にしてひとつの文明を展開することのできた民族と、その一大文明の辺境諸民族のひとつといてスタートした民族とのちがいであろうとおもう。」

内田さんは、このことを言い方を変えたりして繰り返して書き、私たちがそうであることを意識することの大切さを訴えているようです。

そして、
「日本の右翼左翼に共通する特徴は、どちらも「ユートピア的」でないこと、「空想的」でないことです。すでに存在している「模範」と比したときの相対的劣位だけが彼らの思念を占めている。」という指摘はするどい。

ただし、後半に述べられている師のありかた、学びのあり方、については、内田さんが具体例として出している古武道などといった、身体知のようなものについては当てはまるように思いますけど、そればかりじゃないよ、と思ってしまいます。

というのも、私が最も尊敬する板倉聖宣さんは、とても気さくでわかりやすく、しかも深い。普通の師ではないすごさを持っていて、そういう実際の例を知ってしまっているので。

ところで、ふと、内田さんの経歴を見たら、神戸女学院大学教授となっていて、そういえば今職場に来ている臨時職員さんがその大学の出身だったので、「内田さんってい知ってる?」って聞いたら、「友達が内田先生と写っているプリクラ持ってますよ」でした。教授も大変(もといっ、うらやましい?)ですね。

夫婦別姓に関する法案に思う

[2010年02月22日(Mon)]
夫婦別姓に関して、私は、何年か前に話題になったときに、なぜ法律が成立しなかったのか単純に不思議です。

夫婦別姓と言ったって、夫婦別姓を強制するわけでなく、そういう選択もできるというだけだと思うので、実際に、すでにそれぞれのキャリアがあって、そのままの名前で通したいという人や、自分の姓にこだわりがある人が別姓を選択するだろうけども、多くの人はこれまでどおり、どちらかの姓にそろえるだろうと思います。

例えば、私が結婚した20年前、相棒は自分の姓にこだわりがあり、私は別にこだわっていなかったので、相棒の姓にしてもよかったのですけど、親が私が男だから、男の姓にするのが当たり前ということにこだわっていて、それを説得するほど事を荒立てる気持ちもなかったので、相棒には申し訳なかったのですけど、折れてもらいました。

私自身は、自分の名前にこだわりがないのですけど、結婚すると姓を同じにしなくてはならなくて、それが慣習として、ほとんど(確か私の結婚した頃は95%)が男性の姓になるということが、いやだなあと思う人は結構いるのではないでしょうか。

そういう無言の圧力って、ストレスになると思うので、そういうストレスが少しでも減らせる制度になるのなら、それでいいのじゃないかと思います。

夫婦別姓にすると、家族が崩壊するという話も聞くのですけど、「え?」と思ってしまいます。姓くらいで崩壊するのなら最初から結婚しなくてもいいだろうと思うし、それよりももう少し、根本的な問題として、夫婦と子どもが単位の家族というものが、社会の単位にされてしまったのは、ここ数十年の最近のことで、その負担に耐え切れない家族が増えてきているというのは、今日の社会が抱えている問題で、夫婦別姓などとはまったく別問題であると思われるからです。

家族の問題については、このブログの中で、2008年7月26日に『日本人のしつけは衰退したか』という入門的な新書の紹介をしていますし、最近の2010年2月13日の記事「家族の機能低下、それは社会の問題です」でも書いていますので、参考にご覧ください。

ちょっとだけ、おまけ。
国勢調査が始まったころ<1920(大正9)年>、当時結婚しても、子どもが生まれるまでは、その家の姓が名乗らせてもらえなかった中(子どもができなかったら、実家に帰らせられていたこともあったらしく、それはそれでひどい話です)、国勢調査では、事実上のことを書いていいといわれて、その調査票にその家の姓を書くことができてうれしかったという話が、国勢調査の歴史を紐解けば出てきます。つまり、当時は、ある意味夫婦別姓だった?

これをグラフというと、あなたは笑うのでしょうか1?

[2010年02月21日(Sun)]
グラフ的目次_月刊誌「たのしい授業」の場合

グラフというと、棒グラフや円グラフを思い浮かべると思いますけど、グラフの元もとの意味には「ビジュアル的にわかりやすくしたもの」といった意味があります。例えば、「毎日グラフ」という名前の雑誌がありましたが、写真を多用してビジュアル的にわかりやすくした雑誌でした。

雑誌の目次でビジュアル的にわかりやすくしたもの、というといわゆる電車の吊り広告だったり、新聞の下にある雑誌の広告、ということになります。でもそれって、その雑誌を売るために、ほんの小さな記事のことが、スキャンダラスなコピーとともに大きく書いてあったりして、それもある意味グラフなのですけど、なんだかなあ、って感じです。

そんな中、仮説実験授業の研究成果や板倉さんの本をたくさん出している仮説社が出版している月刊誌「たのしい授業」の目次は、そんなに目立たないけども、グラフになっているのです。


どういうことかというと、掲載記事ごとに微妙に字の大きさや割かれているスペースが違うようになっています。つまり、その記事の占めているページ数に比例して、その記事の目次のスペースの大きさが変わっているのです。目次の占める面積が大きいほど、記事のページ数が多い。目次の字の大きさだけでなく、記事の簡単な解説(要約)の量もその記事のページ数によって長い短いが決められているということです。

目次を見ると、その記事のボリュームがわかる。! わかりやすい目次ですよね。

記事のページ数によって、その記事の重要度が決まるなんておかしい。などと言うなかれ。記事を選んで、その記事に見合った長さにすれば、長い記事はその長さの分だけ中身がある(短い記事もその短さの分だけ中身がある)という自信のあらわれとも言えるのです。

だから、このグラフ的目次は、他の雑誌にはまねできないかもしれません。

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