『<責任>の生成―中動態と当事者研究』
『<責任>の生成―中動態と当事者研究』(國分浩一郎・熊谷晋一郎著、2020年、新曜社)
ともに著作を読んだことがあって、関心を持っている2人が行った対談と講義(2017年から2018年にかけての4回分)をまとめた本ということで、謎なタイトルながら読んでみたのですが、これがなかなか面白い。
最初のほうで、主に統合失調症という精神障害を抱える当事者たちが共同で事業を行っている北海道の「浦河べてるの家」(以下、「べてるの家」)での取り組みが取り上げられていて、まず心を掴まれてしまいました。
「べてるの家」では、いろいろと問題が起きてしまって、普通はそういう場合、犯人捜しになってしまいがちなのですが、例えば、放火が起きた時、それを誰が起こしたというよりも自然現象としてとらえて、一度外に置いてみて、みんなでどうしてそんなことが起こってしまったかをじっくり話し合うのだそう。そうして、そういう形である意味免責してしまうと、その現象のメカニズムが次第に解明されていって、結果として、自分がしたことの責任を引き受けることができるようになったりするのだそうです。
また、当事者研究の具体例としてあげられている、自閉スペクトラム症の人が、空腹感がわからないというとき、実は視覚や聴覚など外からやってくるいろんな刺激と、皮膚の外側や内側からもたらされる様々な刺激(昨日シャンプーしてないから頭がかゆいとか、指のささくれが痛いとか)が等価に意識に上ってきて、その中に含まれている空腹感を絞り込んでまとめ上げることがなかなかできない場合があるらしいということも考えさせられる。逆に、いわゆる健常者は、いろんなしがらみを「うっかり」絞り込んでまとめ上げてしまっているのじゃないのか、とも。
そして、「意思」の概念を発見したのはキリスト教哲学ではといわれていることや、「意思」があったから責任が問われるのではなくて、責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意思の概念によって主体に行為が帰属させられているのだという話になったり、社会的に注目される障がいも変遷していき、ある時代に注目される障がいには、その時代の規範のネガみたいなところがあるかもしれないなどと、どんどん、2人のやり取りの中で、個別具体的な障がい者の話と、哲学的な話が入り組んで深まり、面白くなっていくのです。
もう一度読み返してみたいと思えるような場所が何か所もある本です。

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ともに著作を読んだことがあって、関心を持っている2人が行った対談と講義(2017年から2018年にかけての4回分)をまとめた本ということで、謎なタイトルながら読んでみたのですが、これがなかなか面白い。
最初のほうで、主に統合失調症という精神障害を抱える当事者たちが共同で事業を行っている北海道の「浦河べてるの家」(以下、「べてるの家」)での取り組みが取り上げられていて、まず心を掴まれてしまいました。
「べてるの家」では、いろいろと問題が起きてしまって、普通はそういう場合、犯人捜しになってしまいがちなのですが、例えば、放火が起きた時、それを誰が起こしたというよりも自然現象としてとらえて、一度外に置いてみて、みんなでどうしてそんなことが起こってしまったかをじっくり話し合うのだそう。そうして、そういう形である意味免責してしまうと、その現象のメカニズムが次第に解明されていって、結果として、自分がしたことの責任を引き受けることができるようになったりするのだそうです。
また、当事者研究の具体例としてあげられている、自閉スペクトラム症の人が、空腹感がわからないというとき、実は視覚や聴覚など外からやってくるいろんな刺激と、皮膚の外側や内側からもたらされる様々な刺激(昨日シャンプーしてないから頭がかゆいとか、指のささくれが痛いとか)が等価に意識に上ってきて、その中に含まれている空腹感を絞り込んでまとめ上げることがなかなかできない場合があるらしいということも考えさせられる。逆に、いわゆる健常者は、いろんなしがらみを「うっかり」絞り込んでまとめ上げてしまっているのじゃないのか、とも。
そして、「意思」の概念を発見したのはキリスト教哲学ではといわれていることや、「意思」があったから責任が問われるのではなくて、責任を問うべきだと思われるケースにおいて、意思の概念によって主体に行為が帰属させられているのだという話になったり、社会的に注目される障がいも変遷していき、ある時代に注目される障がいには、その時代の規範のネガみたいなところがあるかもしれないなどと、どんどん、2人のやり取りの中で、個別具体的な障がい者の話と、哲学的な話が入り組んで深まり、面白くなっていくのです。
もう一度読み返してみたいと思えるような場所が何か所もある本です。

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