278_いまどき、焼き芋?『ヒトの見ている世界 蝶の見ている世界』
『ヒトの見ている世界 蝶の見ている世界』(野島智司著、青春新書、2012年)
タイトルに偽りありという本は時々あって、この本もそう。 荒削りな感じが若干感じられますが、いろいろなヒントに富んでいて、考えされられて興味深い。というか、新書というのは基本的には軽い読み物という位置付けで、それで関心を持ったら詳しくは専門書を読んでみるものだという考え方で言えば、至極まっとうな新書らしい新書とも言えます。もう少し内容に即した、楽しそうなタイトルにしてもよかったのではないかと思えるほど(タイトルは編集者がつけることが多いと思われるので、編集者のセンスの問題か?)。 できるだけ広く、基本に返りながら解説しようとしている著者の姿勢にも好感が持てます。 主に昆虫と鳥の視覚について、その視覚によって見ることができる世界のことについて、ヒトの視覚とその見ている世界と比較しながら書いているわけですが、地球規模での生命の誕生から視覚というものが生まれてくる過程や、視覚がもたらした生命への影響などについても言及してあります。 印象に残ったのは、固い殻で体を守っている制約から、体を大きくできないために脳も大きくできないという昆虫の脳が、「微小脳」と呼ばれ、その制約を逆手にとって、体がいくつもの部分に分かれており、それぞれ神経節が発達していて、全体の脳に情報を届ける前に、情報の取捨選択を行っているということ。 ヒトなどの内骨格の動物では、感覚器官から得られた情報をできるだけ取捨選択せずに脳に送り、脳で総合的な処理を行うのとは少し違った方法をとっているわけなのですが、情報化社会の進展とともに処理しきれない情報をもてあましてしまって、社会全体として判断停止になってしまっているような現代社会においては、どうやって情報を取捨選択すればいいかというのが大きな問題になっているわけで、昆虫は、早くから、地方分権的に、現場で情報の取捨選択をすることによって、中央に負担をかけずに物事を進めるというシステムをとっているのです(現代の情報社会へのヒント?)。 また、視覚を獲得し、色覚を発達させた昆虫(や鳥)が、自らの生存のために植物を見て自分の都合のよい情報を得るようになったことが、逆に昆虫の特性を利用して、自らの生存の可能性を広げるために植物がいろいろな色彩を展開してくことにつながった。つまり、昆虫と植物がお互いに駆け引きをしながら進化していったこと。現在、私たちが愛でている花や葉の色というものは、昆虫や鳥のおかげだとも言えるということは、あらためて面白い事実です。(花を美しいと感じる私たちの感性って?) それにしても、著者が最後のほうに書いている、私たちヒトの感覚の特殊性というのも興味深い。私たちは、例えば視覚が欠けても、そのほかの感覚がそれを補完するように発達するし、様々な道具を使うことによって世界を広げることができる。そういった想像力がヒトの特徴であり、それでも、不可知なことは限りなくあり、多様な世界を持っている生物がいるからこそ世界は豊かなのであり、どうやっていろいろな生物とこの世界を共有することができるのかというのは大きな課題で、そのためにこそ、私たちは他の生物たちを学んできたのだといえること。 私は、私たちヒトというものは、もしかしたら、そうやって世界を(学問や、文化や芸術などの手段によって)表現し直すことによって、より世界を深める役目を持っている。というか、それしかできないのかも、と思ったりすることがあります。
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