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MI ジャーナル

―はたけと芸術を楽しみつつ、仮説を立てながらいろんな人と協働して問題解決を図り、子どもとともによりよい社会を目指していきたい、そんなことを考えている人のヒントになりたい―


キーワードは、農業(はたけ)・仮説実験授業・楽しさ・子ども劇場・芸術文化・冒険遊び場(プレイパーク)・チャイルドライン・協働などなど(ただし、私の中でつながっているだけで、それぞれに直接的な関係があるわけではありませんので、誤解のないようお願いします)


「MI ジャーナル」とは、Micro Intermideate Journal(マイクロ・インターミディエット・ジャーナル)。元のタイトル「農芸楽仮説変革子ども」は私の関心領域のキーワードをつないだだけだったので、2010年3月3日より、私の日々の情報発信という意味で、MI(村夏至)ジャーナルとしたのですが、2014年9月4日から、MIの意味を変えて、小さいながら何かのきっかけや何かと何かをつなぐ内容にしたいという意味の名称にしました(詳しくは、カテゴリー「21MIジャーナル」をご覧ください)。

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『ヒバクシャ 世界の終りに』

[2010年08月08日(Sun)]
『ヒバクシャ 世界の終りに』(2003年、ドキュメンタリー映画、監督:鎌仲ひとみ)

劣化ウラン弾の使用によって白血病やガンになったと疑われるイラクの子どもたちや、アメリカのハンフォードという町(第二次世界大戦中に原子爆弾を作るためのマンハッタン・プロジェクトに使うプルトニウムの精製場所として核施設が作られた町)の風下に入植した農家の人たちにガンが多い話、日本での原爆で爆心地からは少し離れていたり、投下後に爆心地近くに行ったために病気がちになっている人など、いずれも低線量被爆と言われる、因果関係が明確には解明しにくい被害にあっている人たちのことを丹念に取材して編まれた作品。

鎌仲さんの独立第一作目にして、『ヒバクシャ 世界の終りに』『六ヶ所村ラプソディ』『ミツバチの羽音と地球の回転』の三部作の中で、私がまだ観たことのなかった作品。瀬戸内シネマという団体の例会のようなものにお誘いを受けて参加させてもらいました(上映後にビアガーデンで交流会も開かれ、新しい人ともいろいろ話すことができ、有意義な会でした)。

天然ウランから核燃料を精製する段階での廃棄物である劣化ウランは、その密度の高さや、衝突したときに先端が鋭く変形する特性があるため貫通力が強く、また空気中の酸素と結合して燃えるため、弾頭としての特性が高いとして使われることとなり、1991年の湾岸戦争で初めて実戦使用されました。

戦車の装甲板などを貫通するときにとても高温になって、放射性物質が微細な粒子となって空気中に飛び散ることはわかっているのに、いくら弾頭としての特性が高いからと言って、使用するのは問題でしょう。映画の中では、戦場に放置された戦車の残骸などがある場所に、その劣化ウラン弾も放置されていました。湾岸戦争以降、イラクは経済制裁を受けており、抗がん剤が、大量破壊兵器をつくる材料に使われるからと輸入することができずに、子どもたちが死んでいくことが描かれており、考えさせられます。

アメリカのハンフォードでは、それぞれが農業を営む兄弟が登場し、兄は、政府に補償を求める被害者団体として活動しており、弟は、家族の健康は心配だが、核汚染はあくまで関係ないとして、大規模な農場を経営している。弟が「これまでのことは忘れて、これからも農産品を作っていく」という意味のことを言って、それに対して鎌仲さんが「忘れるのは難しくないですか?」と問いかけると「難しいさ」と一言。印象に残る言葉でした。

今や、いろいろな形で世界中にヒバクシャがいることを知らされる映画です。


障がい者の問題が、健常者の問題であるということの具体例

[2010年08月08日(Sun)]
前回の記事のちょっとだけ続きを。

「障がい者の問題というのは、多くは健常者の問題である」とよく言われたりしますが、具体例がないとわかりにくいような気もしますので、私の昔の体験を書いてみます。

都会の街中を車椅子を押して歩いていて、電車に乗ったりすると、場所によってはエレベータなどがなく、困ったりしますが、声を掛けるまでもなく、まわりにいる人がすぐに手伝ってくれて、案外問題なかったりします。

そういう時、経験上、まじめそうなサラリーマンなどといった一般的には立派そうに見える人でなく、茶髪のおにいちゃんや女子高生などが率先して手伝ってくれます(それは別話)。

つまり、例えば、極端な例かもしれませんが、目が見えないとしても、人がそこそこ歩いているところであれば、目的地を言って、通りすがりの同じ方向に行く人に一緒に行ってもらって、それを何度か繰り返せば、そのうちに目的地につけるはずです。特別に、一人の人が連れていかなくったって。それは、理想で、現実は難しいにしても、少なくとも、目的地につけないのは、目が見えない人だけの問題ではないと言えるのではないでしょうか。

人が社会的な動物であって、手助けしあうのが当たり前だとしたら、一人の人だけの問題というのは、実際にはほとんどないのかもしれないと思うのです。


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